読書メモ

An undergraduate. The contents uploaded are mainly notions about books I read, especially anthropology.

ブルーノ・ラトゥール 整理②

ラトゥール整理②

ラトゥール、ブルーノ、「制作から実在へ パストゥールと彼の乳酸発酵素」、『科学論の実在』の第4章から。

 

概要
科学における「実在」はいかにして「制作」されるのか。ラトゥールは本章で、パストゥールの乳酸発酵素の「制作」を取り上げる。その過程の分析から通じて明らかになるのは、「実在」とは決して無言な自然から導かれるものではなく、様々な人間と非・人間を通じて「制作」されるものであった。制作とは、実験における試行を通じて、ある行為を切り出し行為群として束ね、そして実体として名付けるという過程である。多くの人間、非・人間(アクター)がその過程/その後に参与すればするほど、ある実体は「実在」として強固になっていく。

 

乳酸発酵素はいかにして実体となるか 

 

乳酸発酵素が実体となっていくのは諸段階を通過していくことによるものだった。それらは、
①移ろいやすい感覚所与(何となく観察できる特徴がある)
②行為の名前
分類学の中に場所を占める
という過程である。

つまり、
何気なく観察される特徴(①)をパストゥールが見出す。それは灰色の点々を伴う。実験を通じてパストゥールはそれが何をなしうるのか、行為をリストアップする(②)。そして、さらに実験を繰り返し、醸造酵母との類似と差異において、分類学の中に場所を占める(③)。
といえるだろう。
この後、パストゥールは論文を書き、発表し、賛同を得、乳酸発酵素が独立した「実体」と扱われるようになっていく。

ここまでは前回書いたようなもの。

 

 

「実在」と「制作」の区別にみる矛盾


今回、ラトゥールはパストゥールが論文で述べた二点に着目し、論を進める。
二点とは以下、AとBである。

A. 発酵素は私の実験室で制作された
B. 発酵素は私の制作から独立している
これは、あたかも次のことが自明であるかのような帰結を導く。

…彼の実験室での作業が注意深く熟練した者であったが「故に」、「したがって」発酵素は彼がなしたことから自律し、実在で、独立している…


ラトゥールはこれを、比喩を用いて言う。発酵素がパストゥールによって制作されたにも関わらず独立している(ように見える)のは、人形使いが糸を用いていることが見えたとしても、別の指示の平面で人形によって「自由に」演じられた物語の信頼性は損なわれないのと同様である。

 

パストゥールが乳酸発酵素を制作したにもかかわらず、乳酸発酵素は独立している。これは矛盾である。操られた人形は糸を引く人形使いがいなくても物語を演じるのだ、と主張したら不自然であるだろう。


しかし、パストゥールにとっては矛盾ではない。ラトゥールによれば、パストゥールにとっては、これらは矛盾でないということを理解できない限り、先へ進むことはできない。

 

では、どうするのか。まず、乳酸発酵素が実体となっていく実験の観察と、このパストゥールの二つの主張(AとB)から以下のことがリストアップできるという。
それは、ラトゥールによれば、少なくとも四つの相矛盾する事項である。
そしてこの矛盾は、モダニストの行為の理論に固執する限りにおいての矛盾である。
(1). 乳酸発酵素はあらゆる人間の構築からも独立している
(2). それはパストゥールのなした作業の外側で独立した存在ではない
(3). この作業は、発酵素の存在に多くの疑念を抱かせるような否定的なものではなく、その存在を可能にするような肯定的なものとして受け取るべきである
(4). 最後に、実験は、単なる既存の要素の固定されたリストにおける再結合ではなく、一つの事象である

 

これらの四つの項目をすべて同時に満たすことを可能にするには、物語る人間と無言の世界の間の区分を廃棄しなければならない。
いかにしてこの人間、非・人間の関係に対して解を提示しうるだろうか。

 

矛盾を乗り越える――命題と分節化


ラトゥールはアルフレッド・ノース・ホワイトヘッドの用語、「命題(propositions)」の概念を借用する。
また、諸命題の間に確立される関係を、ラトゥールは分節化(articulation:分節 《発話の各部分を有意味な言語音に分けること》weblioより)と呼ぶ

 

まず、「命題」について本文にある特徴を書き出してみる。

・命題は、言明でもなく、事物でもなく、さらにはいかなる類の両者の間の中間項でもない。
・命題は、まず何よりもアクタントである。
・パストゥールも、乳酸発酵素も、実験室もすべて命題である。
・諸命題を互いに区別しているのは、言葉と世界の単一の断絶ではなく、それらの間の多数の差異である。(「それら」とは、諸命題or言葉と自然?ただ、言葉と自然という区分を取らないのであれば、諸命題か。)
・そして、その差異が大きいのか、小さいのか、暫定的なのか、決定的なのか、縮退できるか、できないのかを前もって知っている者は存在しない。
・命題は、位置でもなければ、事物でもなければ、実体でもなければ、自然――雄弁な人間精神と直面した無言の対象からできている――を貫通する本質でもなく、異なった実体が接触を取るために与えられた機会である。
・この相互作用の機会によって、実体は、ある一つの事象――目下の事例では実験――の過程で定義を修正することが可能となる。

 

次に、「命題」についてまとめてみよう
・命題はアクタント。
・パストゥール、乳酸発酵素、実験室は命題。
・「諸」命題という複数形を取る。
・諸命題を区別するのは、多数の差異である。
・どんな差異かと言えばそれは、諸命題の差異である。
・差異を前もって知っている者は存在しない。
・命題は、位置、事物、実体、自然、ではない。機会である。
・この機会において異なった実体は接触を取る。
・この相互作用(つまり、接触か)の機会が設けられることで、実体は定義を修正できる。
・実体の定義の修正は事象の過程で行う。
・事象とは例えば実験のことである。

 

つづいて「分節化」についてその特徴を本文から抜き出す
・たとえばパストゥールは実験室で乳酸発酵素を「分節化」する
・分節化は命題――多種類の実体が参画している――の非常に一般的な特性
・たとえばラトゥールの友ルネ・ブレは土塊を「土壌比較器」のボール紙の小さな箱に収める際に、土塊を分節化していた
・命題は差異の分節化――これによって新たな現象が、諸現象を区別する裂け目において目に見えるようになる――に依拠している
・分節化は他の実体を伴う賓辞(predication:叙述 weblioより)(AはBであり、Cであり、……)に依拠している
・「乳酸発酵素」という文は乳酸発酵素という事物に似ていると言っても、ほとんど意味はない。しかし、乳酸発酵素は、醸造酵母と同様に特定できる生きた有機体のように取り扱うことが可能であると言うことは、十九世紀の科学と産業と発酵と社会の関係にまったく新しい時代を切り開くのである。
・命題には、客体の固定された境界は存在しない。
・より多くの分節化が存在すればするほど優れている
・実験という事象の中で試行を通じて獲得された行為の名前は、実験室の人工性を通じて乳酸発酵素が分節化可能になるための発話の形(figure of speech)なのである
・乳酸発酵素は、無言で未知で同定されていない存在であることをやめ、非常に多数の要素、非常に多数の論文、非常に多数の状況に対応した非常に多数の反応から作り上げられた存在である。きわめて単純なことに、乳酸発酵素に関して語られることがどんどん増大し、次から次へと多数の人々によって語られたことは信頼性を獲得していくのである。
 (cf.文献の関連付けの話)
・生化学の分野は、その語のあらゆる意味において「より分節化された」状態になる
・生化学者は、パストゥールのおかげで、生化学者「として」存在できるようになった
・われわれは、優れた実験室のように十分分節化された状況下でのみ、新しい独自の事物について語ることができる。諸命題間の分節化は発話よりもはるかに深部へと突き進んでいく。われわれは、世界の諸命題が分節化されているからこそ語るのであって、他の理由によるものではない。より正確には、われわれは、興味深く語ることができるものによって、興味深く語ることができるのである。

 

そして、「分節化」についてのまとめ
・分節化とは、諸命題の間に確立される関係である
・分節化は命題の特有の性質。つまり命題は分節化を伴うといえる
・たとえばパストゥールは実験室で乳酸発酵素を「分節化」する
・土壌学者は小さな箱に収めることで土塊を分節化する
・命題は差異の分節化に依拠。つまり差異の分節化によって命題となる
・差異の分節化によって現象が区別可能
・分節化は賓辞に依拠。何かを語る時、同時に別のなにかも語られることになる。他との関係において語られる
・命題には客体の固定された境界は存在しない

 


以上をふまえて、解釈も交え、適当だがまとめ。

 

命題(アクターとほぼ同義か)とは行為の束であって、それは他を分節化する機会をもつ。行為の束が、諸命題の間に差異を生み出す。だが、その差異は前もってわからない。諸命題はたとえば、パストゥール、実験室、乳酸発酵素である。実験室の器具一つ一つもまた命題になるだろう。この意味で、ある命題は別の命題を含みこんでいそうだ。(フラクタルという発想?アクターは働きかける行為群だが、その行為を可能にするために他のアクターが必要になる。そしてそのアクターも・・・。というように循環して入れ子状になっているイメージ。入れ子状だから、アクター間の一方的なヒエラルキーもない)そしてその行為を働きかけることではじめて差異だったり分節化だったり、ということが現れるという意味で、固定的な境界が存在しないということか。

ANTはネットワークを追うことを通じて現実を認識するものだった。ネットワークを追いかけるという意味では、何がアクターとして差異をつくりだし現実を制作していくのかを記述していくことになるのだろうが、必然的に、アクターの濃度ともいえるような、アクター間の差異が現れてしまいそう。記述を想像してみる。Aという現実にはa、b、cというアクターを想定、aというアクターにもまたd、e、fというアクター、fもまた…というように、どのアクターにおいても同じくらい情報がありそう。
アクター≒行為をするという意味での主体(?)、の連なりのイメージか。その連なりによって現実が生み出されていく。かなりきれいに書き分けができないと非常に煩雑でわかりづらくなりそうだし、めちゃめちゃ技巧的になりそう。

 

分節化→行為を確かめる、行為を束にする→束になったものには、期待(予期)された行為群がある→行為によって他を切り出す→切り出す能力(機会)があるものが命題→つまりアクタント(アクター?)である→アクターは期待された行為群をもち、その行為において他のものを「切り出す」

ただ、アクターのネットワークはどちらからも眺めるような相互の視点が必要か。

分節化という発想とか、版画に使えたらおもしろい。

 

 

興味深く語る→語ることの前提には区別することがある→区別することは切り出すこと→よって、私たちはそれらを用いて語ることができる、ということか。
だから、分節化する→これってこれですね、と区別=発話する→その発話を用いて、私たちもまた発話することができる。私たちの発話は、非・人間の発話によって可能になる。

 

 

矛盾の振り返り


最後に先ほどの4つの矛盾を振り返ってみる。

(1). 乳酸発酵素はあらゆる人間の構築からも独立している
(2). それはパストゥールのなした作業の外側で独立した存在ではない
(3). この作業は、発酵素の存在に多くの疑念を抱かせるような否定的なものではなく、その存在を可能にするような肯定的なものとして受け取るべきである
(4). 最後に、実験は、単なる既存の要素の固定されたリストにおける再結合ではなく、一つの事象である

これをラトゥールのように考えれば、(1)乳酸発酵素は非・人間が発話=区別をするという意味において人間の構築から独立している。しかし、その発話にはパストゥールも参画しており、その意味で(2)パストゥールのなした作業の外側で独立した存在ではない。また、そのパストゥールをはじめとした諸命題の働きかけ=作業が行われれば行われるほど(3)発酵素の存在に多くの疑念を抱かせるような否定的なものではなく、その存在を可能にするような肯定的なものになっていく。諸命題が複雑に共演し、諸命題をつくりだすという意味で(4)実験は、単なる既存の要素の固定されたリストにおける再結合ではなく、一つの事象である、といえるだろう。

パストゥールが乳酸発酵素を「制作」するとき、乳酸発酵素もまたパストゥールを「制作」しているのだろう。

低温殺菌牛乳を飲んだりヨーグルトやチーズを消費する私たちも、乳酸発酵素で有名なパストゥールの「制作」に微力ながら貢献していそうだ。

 

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ブルーノ・ラトゥール 整理①

久保明教「世界を制作=認識する」『現実批判の人類学』からのまとめ

 

概要

久保は、ブルーノ・ラトゥールおよびアルフレッド・ジェルの著作を引用しながら、我々が世界を作り上げる営為はそのまま世界を認識する営為に他ならないことを示し、現実批判の契機を見出そうとしている。従来の批判は、科学的/文化的な認識論に基づいたものだった。しかしラトゥールやジェルは、そのような二項対立を無効化している。両者はともに、様々な存在者の関係を通じてこの世界の現実が作り上げられていく過程に分析を集中させる。これは一見して現状追認にしか思えないかもしれない。しかし、実践を通じて観念が「真理化」されていく過程をつぶさに捉えることは、その仕組みを明らかにすることでもある。自明とされる「真理」のブラックボックスを開けることで、世界の可変性を見出す可能性を示している。

 

 

科学と文化 二つの認識論

 

日常をはじめ、私たちは世界をどのように捉えているのだろうか。私たちにとって「客観的な」現実とは、いかなるものなのか。

 

「人々にとって自明な現実とはいかにして生み出されるか。この問いに対する人類学的解答は長らく文化主義的な枠組みに依拠したものであった。つまり、異なる文化に属する人々は異なる仕方で世界を認識するのであり、人々は各文化に固有の象徴や言語の体系を通じて解釈され意味づけられた世界を自らの現実として生きているのだ、という考え方である。」(p.34)

 

このような「現実」の理解の仕方は、いわゆる文化相対主義的な枠組みをはじめ、人類学の中で論争となってきたものであると思う。

しかしこのような考え方は、学問的な立場である以上に、日常に深く根差したものでもある。

久保は「雷が鳴るという現象」を事例として取り上げる。

 

「例えば、雷が鳴るという現象に対する二つの言明を考えてみよう。一つ目は「電気を帯びた雲と雲(あるいは地表)との間に放電が生じた」というものであり、二つ目は「雲の上で神様が怒っている」というものだ。」(p.34)

 

私たちはこの二つの説明の仕方について、どう感じるだろうか。

前者は「客観的に実在する自然の事実を反映した言明であり、誤っていたとしてもその真偽は科学的に決定できると考える。」

後者は「この言明を発する人が雷鳴という現象をその人なりに意味づけたものであり、その言明の妥当性は個々人の心性に即した主観的な意味づけに委ねられていると考える。」

この「主観的な意味づけ」をとある集団が共有していると考えるとき、私たちはその集団に対して、どう考えるだろうか。よくわからない人たちだなと思うだろうか。

 

「そして、ある集団が同様の言明をしばしば発するときには「彼らは雷が人間に対する神の働きかけ(=神鳴り)であると信じているのだ」と説明される。こうした常識的な理解を定式化すれば、ただちに特定の集団と信念をセットにして「文化」という概念で括る学問的立場が導かれる。」(p.34)

 

 

 

つまり、私たちが「なぜ雷が鳴るのか」について考えるとき、二つの説明の仕方があるということだ。

1、科学的な説明。つまり、雷が鳴るのは電気を帯びた雲と雲との…という「客観的な」説明のことである。そしてこれは世界中どの場所においても普遍的であると想定される(なぜなら科学は文化の違いに関わらず正しいから)。

2、文化的な説明。つまり、雷が鳴るというのは「神様が怒っているから」という「主観的な」説明。これは文化が異なれば、ものの見方も違うという話へつながる。文化は多様なのだから、説明も多様だ。だからこの説明は、普遍的ではない。

 

そして、この「文化(文化主義的枠組み)」は、二つの認識論の結合から成り立っているという。それは科学的な認識論と文化的な認識論である。

まず、科学的な認識論において、世界とは科学的言明によって忠実に再現されるものである。

一方で、文化的な認識論においては、世界は文化的言明による「意味づけ」や「解釈」であって、世界の忠実な再現ではない。

換言すれば、世界の「本当の姿」へとアクセスできるのは科学のみであり、文化は「本当の姿」を捉えることはできず、ただ多様な解釈や意味づけをする、ということだ。

 

しかし以上のような文化主義的な考え方は、近年その有効性を失いつつある。

例えば、科学技術が様々な地域に浸透していくにつれ、「自然」を改変する諸技術が人々の生きる現実を変容させていく動きが無視できなくなっているという理由がある。

(これは、熱帯雨林の開発がもたらす熱帯病などがあげられるだろうか。)

あるいは、経済/政治のグローバル化を通じて様々な地域の活動が結びつき干渉しあうにつれて、個々の文化という自律的な領域を設定することが妥当性を失っているという主張。

(安易な例では、カリフォルニアロールはどうだろうか。)

 

では、従来の文化主義的な枠組みが失効しつつある現在において、人類学的認識論とはいかなるものでありうるのだろうか。平たく言えば、人類学において、現実をどのように記述すればいいのだろうか。今回はラトゥール部分のみをまとめる。

 

ANTの可能性

 

ラトゥールがミシェル・カロンらと共に推進してきたアクターネットワーク理論(Actor-Network Theory: ANT)についてまとめる。ANTは、上記の問題に対して、有効な方法論を提供していると考えられている。

久保の整理をみていこう。

ANTは、「あらゆる存在者は関係を通じて生み出される」(John Lawからの引用)という関係論的な存在論を基盤にしている。

ここで注目したいのは、関係に先立つ存在はなく、個々の存在者は他の存在者との関係を通じて特定の形態や形質をもつ。そして、この原則は人間に限らず、動物、機械や道具と言った非・人間も含むあらゆる存在者に適用されるという点である。

差異を生み出すことによって他の事物の状態に変化を与えることができるものはすべて「アクター」と呼ばれ、これらのアクターが取り結ぶ諸関係が「ネットワーク」と呼ばれる。

ネットワークはその働きを通じてアクターを定義し変化させ、アクターは互いに働きかけながら様々な関係の網の目=ネットワークを構成していく。「アクターネットワーク」とは、この両者を同時に表す概念である。

 

 

この理論は、先ほどの問題(文化主義的な考え方)に対してどういう点で「解」となりうるのか。

それは「ブラックボックス」を再び開くアプローチを取ることである。

 

ANTというモデルにおいて、アクターは原理的に不安定で流動的だ。このような諸関係が相対的に安定し、持続性をもつにいたると、それらの性質が固定化され、「ブラックボックス」化される。

この「ブラックボックス」化を描くことはつまり、現実がどのようにしてつくりあげられているのかを記述するということである。

 

それでは、実際の事例を見てみよう。ラトゥールによる二つの事例分析である。

 

事例の検証

 

【事例1】アマゾンの森林に関する調査研究

これは現地の植物学者とフランス人の土壌学者を中心におこなわれた。

目的は、森林とサヴァンナが接する境界地帯で森林がサヴァンナに向けて前進しているのか、あるいはサヴァンナが森林に向けて前進しているのかを解明するためである。

科学が担うべきである世界の「本当の姿」――ここでいうところの境界の変動という「自然の事実」――はどのようなプロセスを経て明らかにされるのだろうか。

 

ラトゥールが見出したのは、世界を虚心坦懐に見つめ、その世界に一致する言葉(普遍的な科学的言明)を探す科学者(ここでは土壌学者)の姿ではなかった。科学者は、「言葉よりも世界自身をはるかに強く攪拌し、変換する」ことを通じて科学的な認識を行っていたのである。土壌学者の具体的な実践をラトゥールは記述している。

 

 ①生い茂る森林で、標本となる土壌を取り出す穴を掘る位置を印づける。

 ②ペドフィルという道具(糸を吐き出し、その長さを測る装置)を用いて、無数の糸で地表を覆い、それぞれの穴の距離を測る。そしてこれらの数値をノートに記録。

 ③各穴から土壌サンプルを採取し土壌比較器を観察する。様々な穴の様々な深さから採取された土壌がこの立方体(土壌比較器)に土塊として収められる。

 ④方眼紙上に、森林とサヴァンナが接する土壌の横断面が描かれ、特定の座標の深さによる色の差異がまとめられる。

 ⑤報告書に結論をまとめる。(森林に適した土壌がサヴァンナに向かって前進しているという結論)

 

以上において、①土壌は、②ペドフィル等を用いてノートの幾何学的升目→③土壌比較器におさめられた土塊の配列→④図表(土壌の断面図)→⑤報告書の文章、という一連の変換を受ける。このように見てみると、世界と言明の間には深い溝があり、科学的な事実はその外側に存在しているという前提が疑われる。

この結びつき(ネットワーク)がどこかで断たれれば(例えば、ペドフィルの糸がもつれてカウンターが誤作動したり、土壌比較器のボールが破れて土塊が入り混じったり)、途端にその妥当性は失われる。

 

では、ここでのアクターがどのように存在しているのかを見てみよう。

土壌が報告書に変換される過程では、①から⑤のアクターは物質かつ記号として互いに響きあう。

言語から世界へ指示が一方的に示されるのではなく、諸アクター間を指示が循環しているのである。

このとき、各アクターは固有の形式と物質性をもつが、それらの性質は常に他のアクターとの関係に規定される。

例えば、土壌比較器の配列(③)は、ボール紙や木製の枠といったその物質性において区画化された大地(②)の形式を受け取り、それによって升目状の配列という自らに固有の形式を獲得する。その形式は、さらに方眼紙と鉛筆の線からなる物質性をもった図表(④)に引き受けられることで、土壌の断面図という新たな形式へと変換される。

このように、アクターは他のアクターとの関係を通じてはじめて固有の形式や物質性をもつということだ。

※これについては、モルの『多としての身体』、第3章の超音波検査と血管造影との翻訳の過程に詳しい。これらは互いの比較を通じて固有の形式を得るという点で参考になりそう。

そして、この変換の過程で様々な分節化が起きている。土壌→ノートの升目、区画化された大地→土壌比較器、など。この変換は相互に可能でなければならず、ネットワークを通じて往復できるようになっている。

報告書の文書が世界について何かを言明しうるのは、自らに固有の形式と物質性においてこうした分節化の連鎖に連なる限りにおいて可能である。

このように、科学者が自然の「実在」を把握するためには世界を特定に仕方で制作しなければならず、世界を「制作」するがゆえに、「実在」を把握できる。

 

ただし、ここではやはり科学者が独立して世界を忠実に模写したというように見えそうである。ではつぎに、以上のような過程で制作された「実在」が、どのように私たちにとって自明な現実となるのかをみてみよう。

パスチャライズド牛乳などの名前に見られる、パストゥールの事例である。

 

【事例2】パストゥールによる乳酸発酵素の発見

 

ラトゥールはパストゥールの論文「いわゆる乳酸発酵に関する報告」を分析し、乳酸発酵素という新たなアクターが現れていく軌跡を描き出す。

 

段階1、論文の冒頭で、いままでの乳酸発酵素の存在は否定されている。「現在に至るまで、綿密な研究でも有機的存在の発生を発見することは不可能なままである。そのような存在を識別した観察者も、同時にそれらは偶然の産物であり、発酵過程を駄目にしていると確証した」

段階2、次に、そのような存在=アクターXは注意深く観察すれば感覚される。乳酸発酵には「灰色の実体の点々」が伴う。その灰色の物質は圧縮乾燥された通常の酵母と同じように見え、わずかに粘りがある。

段階3、さらにパストゥールは、実験室の様々な要素を動員し、アクターXがそれらに「何をなしうるか」を見定めていく。これは、発酵を促す、液体を濁らせる、白亜を消失させる、沈殿を形成する、気体や結晶を生じさせる、粘性をもつ、といった振る舞いをもつ。ここでアクターXは、感覚的に観察されたあいまいなものから、この振る舞いの集合体へと変化している。

段階4、ここでパストゥールはこの実体を醸造酵母と比較し、分類学において名前と位置を有するような有機的存在へと変える。ここまででは、アクターXは行為(の集合)の名前ではあっても、いまだ行為の源泉ではない。パストゥールが醸造酵母と比較すると、醸造酵母に見られる特徴がXに見られた。ただ、両者をまいたとき、醸造酵母とXとの結果は異なるものであった(アルコール発酵と乳酸発酵)。よって、Xは分類学上、醸造酵母に隣接するが異なる有機体であることが判明する。

段階5、分類学上に位置を占めるに至ったX、すなわち「乳酸発酵素」はいまや確立した実体である。あらゆる作用の起源は酵母へと移行し、それを中心に従来の実践が再定義される。すなわち、生き物としての発酵素の存在を前提にして発酵現象一般にあてはまる条件(酵母の純粋性、各酵母の性質に適合した養分の存在、溶液の科学的組成等)が特定される。

 

アクターXはここまでの段階1から5まで、その姿を変化させてきた。この過程は、あらたなアクター(乳酸発酵素)の働きが他の諸アクターをいかに変化させうるのかを明らかにする一連の「試行」を経て、そのアクターがネットワークの一員となる=実在するようになる過程に他ならない。

そしてパストゥールのさまざまな活動は、このネットワークをより強固にしたり、延長したりするものであった。第一に、上記の論文を通じて乳酸発酵素が存在するという言説を流通させる。第二に、実験室の様々な非言語的要素を動員して乳酸発酵素が適切なパフォーマンスをできるように整える。そして第三に、アカデミーの同僚たちの検証によって、第一の言説と第二の状況の間に必然的な結びつきがあることが確認される。

 

段階6、この第三の検証によって、乳酸発酵素はパストゥールの作り話ではなくなり、確かに「実在」が存在するようになる。

 

 

これらの段階でパストゥールというアクターが行っているのは、

A. アクターXの周囲に様々なアクターを配置し、それらがこうむる変化を特定していくことでXの存在を際立たせること。この段階ではXの有様は他のアクターとの関係に大きく依存している。パストゥールが後者を組織することを通じて前者の性質や働きが形成されていくのだから、たしかに彼はアクターX=乳酸発酵素を「制作」している。

 

しかし、彼の活動を通じてXが他のアクターと密接に関係づけられていくことは、

 

B.他のアクターの有様が乳酸発酵素との関係に次第に依存するようになっていくことでもある。発酵をめぐる多くの要素(培地の性質、溶液の化学的組成、生化学、チーズの製造法など)が乳酸発酵素の存在をあてにして定義され機能するようになる。この段階に至れば、様々なアクターは乳酸発酵素を軸に形成されてきた諸関係に適合的な形で自らを変えざるを得ない。こうして乳酸発酵素は他のアクターの働きかけに対して(相対的に)独立した実体、「実在」となる。

 

パストゥールによる制作の過程(A)と乳酸発酵素が実在していく過程(B)は別個の過程ではなく、連続的で表裏一体をなす。前者がより入念に行われるほど、後者はより確かなものとなる。

 

現実の記述 「真理」をめぐって

 

古くから真なる知識の形成とは、世界の状態についての人々の「信念」と、人為とは無関係に実在する普遍的な「真理」が重なり合う領域が生み出されることだと考えられてきた。

一方、ANTにおいて「真理」が生み出される過程とは、諸アクターの相互作用を通じて新たなアクターがネットワークに接続され、その働きをあてにしながら諸アクターが自らを変化させ定義し直していく運動に他ならない。

したがって、「パストゥールによって発見された乳酸発酵素は本当に存在する」という言明の正しさは、乳酸発酵素というアクターをあてにして十九世紀以来生み出されてきた無数の実践、階層的に拡大してきたネットワークの働きによって(のみ)正当化され、重みづけされる。

 

ラトゥールは言う。パストゥール化(低温殺菌)されたヨーグルトや牛乳を飲み、抗生物質を服用する私(たち)はパストゥールのネットワークの内側で生きており、「端的に私はパストゥールの微生物を受け継いでおり、私はこの事象の末裔であり、翻ってこの事象は私が今日なすことに依存している」

 

ANTは、すでにブラックボックス化した現実がどのように形成されてきたのか(今回は科学的営為)を、諸アクターが織りなすネットワークを追うことを通じて、明らかにしようとする試みであると言えるだろう。

科学の「実在」は、そのような連携を通じてはじめて立ち現れるということだ。

 

 

 

感想

 

今回は科学的営為をめぐるラトゥールの分析に対する久保論文をまとめたものである。

パストゥールの例で、(A)の例、つまり「制作」が、「実在」としてアクターを作り上げていくのに対して、(B)の例は、翻訳ということにつながってきそう。ただ、このあたりはラトゥールの論に沿って考えないといけない。

現実のあり方をANTによって記述していくことは、科学的営為や文化的営為といった区別を取り払いうるかもしれないが、その点は勉強が必要。

加えて、久保は従来の文化主義的な枠組みが失効しつつある現在において、人類学的認識論とはいかなるものでありうるのだろうかと、あくまでも人類学の文脈で議論を行っている。認識論や存在論をはじめ、様々な分野で重複する語がある。基本的なことなのだろうけど、このあたりは、どの文脈に対する(今回でいえば、文化主義的な枠組みの有効性が失われつつある現在に対する人類学の課題)議論の上での語なのか、用語法に注意を要するだろう(ただ、ANTはそういった独立した学問分野を横断したり不安定にさせたり?する側面もあると思うが...)。

補足しておくと、論文の前半で科学的営為に関する記述をおこなっていたのに対し、後半では文化的営為に関する記述が行われる。後半では主にアルフレッド・ジェルの『アートとエージェンシー』を取り上げられている。もうすぐ邦訳が出るらしく、また読んでみたい。

ちなみに本論で引用されたラトゥールの翻訳書『法が作られているとき』が最近刊行されたようだ。

 

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