読書メモ

An undergraduate. The contents uploaded are mainly notions about books I read, especially anthropology.

Godelier, Maurice 2011, The Metamorphoses of Kinship. まとめ②

pp. 10-22.

 

 

 MORGAN, THE FOUNDER

【概要】モーガンには二つの側面がある。一方で人類学における親族研究の草分け的存在であり、一方で、進化論的見方により人類を理解しようとした存在であった。西欧的な見方の非中心化を図り、親族研究を人類学の得意分野にする一方、結局、進化論的説明に終始したのであった。

 

ルイス・ヘンリー・モーガン(モルガン)、1818-1881。アメリカ、ニューヨーク生まれ。弁護士、政治家。イロクォイ同盟(confederation)のセネカ族の調査を行う。 

 

モーガン――人類学における親族研究の草分けとして

●当時の科学的な説明のパラダイムダーウィンの進化論。
セネカ族のフィールドワークにおける、親族に関する発見。
・それは、親族関係が、彼ら自身の論理を反映しているというものであった。そして、それはヨーロッパ人や、欧米の体系とは非常に異なったものだった。
① ヨーロッパでは、父と父の兄弟とを、それぞれ「父」「オジ(uncles)」と区別する。一方で、セネカではその区別がない。
② ヨーロッパでは、「イトコ(cousin)」と言えば、父母の兄弟姉妹問わず「イトコ」と呼ぶ。セネカでは、「FB、MZ」と「FZ、MZ」とを区別する。(人類学者が呼ぶところの、「平行イトコ」と「交叉イトコ」)
以上から、モーガンは結論を導き出す。
=これらの用語法を決定する原則において根本的な差異がある。
   それは、「類別的体系」と「記述的体系」という区別である。

『人類学とは何か』から引用。
「親族を理解し説明するために、モルガンはいくつかの進化論的図式を提案した。そしてそのうちの一つは、いまも用いられている。それは、「類別的」と「記述的」の区別である。」
エリクセン 2008:132]
モルガンの世代の文化史家も人類学者も、多くが親族に興味関心を持ち、そしてそれを進化論的眼鏡で捉えようとしていた。そしてその中でモルガンは、原始乱婚→母系出自→父系出自に発展したと考えた。[エリクセン 2008:133]

 

・加えて、イロクォイの外婚集団をラテン語のgensを用いて区別した。そしてこのような親族集団を「母系出自」と呼称した。

●北アメリカのインディアンの調査
 ・言語や文化は異なるが、親族の用語体系がセネカのものと同じだった。
→このような種の親族体系を「イロクォイ」とした。
 ・一方クロウやオマハは異なった用語体系や婚姻規則であった。
  →これらの相異から、幅広く親族用法や婚姻規則を調査することに。

●世界中の親族の分類
 ・親族に関する質問票を世界中の植民地行政官、宣教師、公務員(civil servants)に送付
  ・質問票=自己を起点/終点とした、親族構成を問うもの
 ・さまざまな親族を名付ける
  ・Punaluan(Hawaiian)やTuranian(Dravidian)など。
  ・ヨーロッパは「Eskimo」型
 ・1871、『人類の血縁と姻族の諸体系』を出版。スミソニアン学会の後援。

モーガンの人類学への貢献
 ・系譜を問う質問票を用いる方法の確立
 ・非ヨーロッパ社会における、社会の構成原理としての個人や集団をつなぐ原則の「発見」
 →これらは、モーガンの非中心化への努力に負うものである。
  ・彼自身の(つまり欧米の)社会や文化の枠組みに関する思考の非中心化

 

 THE INCOMPLETE DECENTRING

 

モーガン――進化論者として

モーガンの功績、他の側面
 ・手元のデータを整理し分析することで、人類の進化を明らかにしようとした
  ・1877、『古代社会』を出版
   ・人類は「野蛮な」状態から「文明化した」状態へ移行する
   ・頂点は、移住したヨーロッパ人によって建設されたアメリカである。
   ・3つの継続的な段階――野蛮、未開、文明化――にさまざまな社会を位置づけた
 ・西洋の形式を非中心化しようとする一方、進化論的図式による人類の説明を行う
  →結果として、西洋を頂点とした進化の道筋を提示(非中心化の失敗)
   ・マルクス唯物史観に位置づける目的で、エンゲルスによって援用される
 ・西洋の核家族と一夫一妻が最も合理的な家族形態
 ・モーガン以後数十年来、多くの調査が行われ、社会の機能における親族関係の有用性を確認
  ・アフリカ、アジア、アメリカ、オセアニアの「部族」社会や、ヨーロッパ、アジア、ラテンアメリカの「小作農」社会などにおいて。

 

 LÉVI-STRAUSS AND HIS CRITICS

 

親族研究の転換――レヴィ=ストロースの功績

●親族は、社会の基盤であり社会の動力であると認識され始めるようになった。そしてそれは親族研究の増加につながり、著名な人類学者によっても行われた。

レヴィ=ストロースの功績――人間社会の条件とは
レヴィ=ストロースインセストタブーを必要不可欠な条件として提示(『親族の基本構造』)→親族関係の発生の条件、「本当の」人間社会の出現の条件
モーガン:近親相姦の排除が、家族や親族関係の変化の原動力であるとし、人間の進歩の条件とした。
 →レヴィ=ストロースの探求≒モーガンから進化論的図式を差し引いたもの
 ・レヴィ=ストロースの研究は、単に通常の理論的関心や人類学の枠をこえ、人間に関して世界的な規模で探求するものだった。
 ・また、フロイトインセストタブーについて言及している(『トーテムとタブー』)
  ・息子による近親相姦的な父の殺害によって、親族関係が出現するとした
  ・『親族の基本構造』においてレヴィ=ストロースフロイトについてあまり言及せず
   ・フロイトの説―殺害による女性交換―は容易には実証できないことによる
 ・レヴィ=ストロースにとって(With Lévi-Strauss)、親族の研究は非常に見込みのある研究領域であった
  ・この後、レヴィ=ストロースは神話研究へ没頭。
  ・彼を支持する学徒によって親族研究は継続。「構造分析」によるもの。
 ・しかしながら、レヴィ=ストロースの打ち立てた体系は、多くの批判を受ける
  ・たとえば、フェミニスト人類学者
   ・親族関係において女性交換が「自然な」ものならば、ジェンダーの平等性は不可避的に達成不可となる

 

親族研究への批判――リーチ、ニーダム、シュナイダー

 エドマンド・ロナルド・リーチ(1910-1989)
 イギリス生まれ。レヴィ=ストロース構造主義に共感、独自の深化をはかる。
 『プル・エリア』、『高知ビルマの政治体系』、『聖書の構造分析』など。

 ロドニー・ニーダム
 ディヴィッド・シュナイダー

●リーチによる親族研究の批判と発展
 ・セイロンの村の民族誌『プル・エリア』(1961)における記述
  ・この村において「親族のつながり(kin ties)」というのは、単なる言葉に過ぎない。より重要であったのは土地との諸関係や土地所有の方である。
  →親族関係が人間社会の根幹であるという仮説を打ち崩すもの
 ・リーチのこの批判はケンブリッジやオックスフォードの人類学者によって支持される
  ・そこにおいて親族や婚姻、近親相姦や出自といった概念は詳細に吟味され、従来の定義とは相反するようなさまざまな事実に直面することもあった。
 ・『人類学再考』(1961)における記述
  ・婚姻とは普遍的な定義を与えうるような制度ではない
 ・1969年にリーチの主導のもと、ASAは宣言
  ・人類学はしっかりとした基盤が必要。そしてまず議論されるべきは「親族」である。

●ニーダムによる親族研究の批判と発展
 ・シンポジウム「親族と婚姻」の準備計画を担当
 ・シンポジウムにおける論文を集めた論集『親族と婚姻の再考』(1971)を出版
  ・リーチと同じ視点から親族研究を批判。批判とともに、研究のさらなる拡大、発展をはかる

●親族の不可能性?――リーチとニーダムの批判
 ・両者は研究の更なる展開をはかった一方で、もはや「親族」の研究は不可能ではないか、という見方を提示
  ・ニーダムの引用(p.18中央)
   「人類学者は親族研究に長けているのではなく、分析に長けている」
    →研究の恣意性を批判。「親族というものなどなく、よって親族理論もありえない」
  ・リーチの「皮肉」
   「親族用語の体系に関する研究は、セットとしてうまくいっていた」
 ・リーチやニーダムの、親族という考えへの抵抗と一般理論への批判は、ゴドリエにとっては親族研究の死の宣告ではなかった。むしろ、親族研究の新たな基盤―親族と経済、権力、宗教などをつなぐといった―であった。
 ・ただ、シュナイダーが親族を基盤としない社会を提示することで、これも15年後(1984年)にはもはや当てはまらなくなる。

●シュナイダーの一撃――親族に基づかない社会の提示
 ・Critique of the Study of Kinship(1984
  ・自己批判を通じて親族を基礎としない社会を提示
・ヤップ島におけるtabineauに関する民族誌
 ・従来の主張:tabineauは母系親族体系と結びついた拡大父系家族
 ・改訂の主張:tabineauやヤップ社会は親族に基づいておらず、別の関係や価値―経済的関係、宗教的、経済的価値―によって人びとは結びついている。
          →親族を礎としていない
・シュナイダーは、親族は「普遍的に認められた基本的な」価値であるという考え方を批判⇔レヴィ=ストロースと反対の見方

●シュナイダーの結論
 ・親族に関するすべての研究は自民族中心主義の定義を基盤としていた。
 ・親族研究は、直接的に、そしてほとんどそのままにヨーロッパの民族的認識論から由来したものだった。つまり、「血は水よりも濃い」というものである。
 ・モーガン以来の親族研究というのは、単に堂々巡りをしていただけだった。
  つまり、まだ本当には始まっていない。

 

親族研究の価値?――ゴドリエの立場

(編集中)

Godelier, Maurice 2011, The Metamorphoses of Kinship. まとめ①

 

Introduction, pp.1-10.

 

1.「親族」の変化――現代の展開

  20世紀の最後の30年は、家族関係や家族についての考え方において、変動(upheaval)が見られた。同時に、私たちは人びとの生活における甚大な変化も見た。

  いくつかの事実がこの変化を実証している。

●異性間におけるもの

 例えば、結婚の減少、別居や離婚の増加など。そしてこれにともなう再婚した家族や父子(母子)家庭の出現および増加。
ただ、上記のように、婚姻上の家族が変容する中で、結婚の軸(axis)は弱くなろうとも、認知(filiation)の軸はいまだなお強固である。つまり、「誰の子どもであるか」については、私たちの考えは強固であると思われる。

  しかし、認知それ自体ももはや自明ではない。というのも、近年の生物学における発見や新しい生殖技術の登場によって、それを定義することが非常に複雑になっているからである。たとえば代理出産などがそれである。
ここから生じる疑問:「本当の」母とはいったい誰であるのか?

  ただ、これらの変容が親族の世界を深く変えようとも、ヨーロッパにおいて長らく親族の定義および表象(representation)の基盤であった原理を揺るがしているわけではない。
 その原理:親族とは基本的に、生物学的、系譜的つながり(tie)両方の世界である。そしてそのつながりというのは、時間的に連続した異なる世代間(親と子など)、あるいは同世代間(夫婦)の、同性(父と息子、兄弟、姉妹など)または異性(夫婦、姉弟など)の個人間でのつながりのことである。

 

●同性間におけるもの

  にもかかわらず、以前は禁止されたり抑圧されたりしてきた「夫婦(unions)」が、ここ20数年来で、明るみに出るようになったし、程度の差こそあれ世論にも暗黙に受け入れられるようになった。たとえば同性カップルなどがそれである。

  ここで私たちは二つの逆説にあう
①同性カップルは結婚を求める一方、異性カップルは結婚を避けつつあるという逆説。
②同性カップルにおいて、親であること(parenthood)というのは、単に多かれ少なかれ社会的、感情的なリアリティであることによって、十分に実現されうるものであるという逆説。

 

●これらに向けて

  これらの現代の展開(development)は今一度、親族に関する人類学の秀でた役割を確認するものであるかもしれない。そしてそれは、多くの法学者、政治家、心理学者たちによって実証されてきたかもしれないことでもある。
だが、人類学者はいまだ親族に関する興味はあるのだろうか。人類学者は親族について1980年代にも関心を持つことをやめてしまったのではないだろうか。

  人類学の花であり得意分野であると考えられてきた親族の研究について確かめる前に、私たち自身の親族システムの原理について振り返ってみよう。

 

2.西欧における親族の歴史――19世紀

  西欧のシステムには3つの構成要素があるのだが、それは私たちの社会で親族関係の深層構造(deep structure)を維持するよう、私たちを互いに結びつけるものである。そしてそれは、西洋人が生まれ育つときのフレームワークである。
 3つの構成要素
 ①一夫一妻である核家族
 ②姻戚あるいは血族によって関係した家族のネットワーク
 ③自己を起点とした親族(Ego’s kindred)[文化人類学のレッスン参照]

 

●親族、アンシャン・レジーム以前/以後、「教会」から「市民へ」

  親族の分野を成すこれら3つの要素は、アンシャン・レジーム下で存在した。しかし、これらは他の要素とも関連していた。それはフランス革命と1804年のナポレオン法の発布の後に消えてしまったか、新しい社会での状況の変化とその変化による新たな道徳、性に関する秩序にさらされたりしたか、というものである。

  それというのは、アンシャン・レジームに特有のこの、価値、実践、権利の形状(configuration)のことである。これらは、1804年の「市民的な」結婚の制度とともに変化し始めた。結婚は、「教会へ記録」するものから「国の登録機関」へ記録されるものになった。

  19世紀では、同棲はいまだ汚名を着せられていた。
その汚名:同棲は、低階級の人びとによる、あるいは社会のしきたりを守らないことを選んだ個人による実践である、という汚名。後者は例えばアーティスト(artists)。
  権威を行使するのは相変わらず父だった。もちろん、同性婚は禁止されていた。そして結婚は、市民的なものにせよ宗教的なものにせよ、カップルをつくりだした(founded)行為(act)だった。

 

3.西欧における親族の歴史――20世紀

  いま、19世紀をさっと概観したが、これは1960年代以来増加してきた変化を示すためのものに過ぎない。1960年代というのは、変動のはじまりの中で新しい社会が形を帯び、広がり始めた(began to thrive)時期だった。そしてこの変動というのは、第二次世界大戦とその後の世界の二分という局面までに西欧でつくられた(wrought)ものだった。

 

●権威(authority)――男女平等へ

  1970年のフランスでは、父の権威(authority)という考え方は放棄され、親の権威というものに取って代わられたが、これは父母双方に平等に共有されたものであった。そしてこれは、親に対して責任を申し付けた(enjoined)のだった。何に対する責任かというと、道徳、安全、教育、健康、さらには別居や離婚に関する責任であった。親の権威は、こうして公衆の秩序のための機能(function)とみなされ、これは国によって保証されたのだった。

  ただし、1975年にはフランスで、「相互の同意」による離婚が可能となり、2009年には結婚したうちの39%が離婚している。

  というわけで、一般的に言って、私たちの社会では、結婚はもはやカップルをつくりだす行為ではないのである。

  たしかに、縁家(related families)のネットワークはいまだ存在しているし、その成員にサポートをおこなったりする。そしてそれは生まれや婚姻上の家族の境界を越えおこなわれている。若者の失業や不況の時には、特にそうである。しかし、これらのネットワークは縮小し始めているのである。

 

●変化の要因――「個人」への価値づけ

  振り返って、20世紀半ば以来の西洋社会で親族の形態や実践を修正(modify)してきた要因とは何なのだろうか?
 ①:カップルをつくる相手を自由に決める権利に対する強調(emphasis)
 ②:社会的、個人的生活のあらゆる領域での両性間の平等への社会的圧力の増加、およびジェンダー役割の変化。
 ③:子どもおよび子どもであることへの積極的な価値づけ。子どもは「理性がない」というような存在ではなく、すでにひとりの人(person)である。そしてその誕生は耐えられないものと言うよりは望まれたものである。さらにいえば、医療の発達で、計画されたものでさえある。

  これらすべての変化は、深化する傾向(deeper current)に伴うものである。そしてその傾向は親族の分野から現れたものというよりは、社会的生活すべての領域において見られる傾向である。その傾向とは「個人というもの」の促進(promotion of the individual)である。
  親になることは困難になってきているし、私たちは、多くの家族が親の権威のはかりしれない危機(profound crisis)を経験しているのを目の当たりにしている。これは母というよりは父により影響しているかもしれない。というのも、伝統的に父がおきてや権威を体現する存在であったからである。

  要するに、21世紀初頭における家族は、もはや社会の礎石でもなければ安定的な基盤でもないように見える。加えて子育ての権利を要求する同性カップルの増加も見られるのだが、これも結婚、家族、親であることを予見するのを難しくさせる要因になっている。

 

4.親族――世界的には?

 

●西欧の世界的な展開?

  世界的には、家族に対するこれらの最近の変化は西洋の民主的な社会の展開(evolution)に伴っているように思える。その社会に見られる特徴は、個人の主導権と利益を尊重し、それゆえ原則として、公私における専制的な形式を拒否するものである。

  第二次世界大戦後から数十年の間に現れはじめたこの展開を誰も予見できなかったし、今日においても誰一人この運動が私たちをどこへ連れていくのかを知らない。

  この家族の展開は社会全体の世界的な展開(the global evolution of society as a whole)と関連したものである、と表現することは、次のようであるといえよう。つまり、結婚、家族、愛や欲求についての多くの言明を、非常に多くのイデオロギーの宣言と見なすようなことである、と。ここに隠れるのはもちろん個人であることへの尊重だろう。

  これに対しては、世界が混乱したと悲観する者、家族というものはすでに瀕死なのだと考える者、個人の自由獲得を喜ぶ者などさまざまである。

 

5.このような状況へのあるべき態度

 

●どのようにアプローチするか

  このような、今日の社会に対する「悪魔化」や「天使化」のはざまで、判断を下す前に、実際の状況や実践に関する子細な調査(inventory)を行うという態度があることは明らかであるだろう。
  この態度においては、理論的な想定を括弧に入れ、人びとの話に耳を傾けることである。人びとは彼ら自身や他者について、あるいは彼らの過去や現在について話すだろう。そして現在の実践に関する論議に正面から向き合うことである。そしてこれらの実践や論議は、個人の個人的な記憶や言及といった時間枠組みよりもさらに長期の時間枠組みに位置づけられる必要がある。この時間枠組みとはヨーロッパ社会の近代史(the modern history)の枠組みである。

  上の態度では、歴史家と人類学者との手法を合わせて用いることになる。
・歴史家・・・よく知られていない過去を再生する(bring to life a past)
・人類学者・・・距離を取りつつも内部から現代社会を観察

 

●人類学は親族研究から退いたのか?

  40年の間で、世代ごとに人類学者は親族研究の原理(principle)や基盤(biological or/and social)を定義、再定義を繰り返す中で、その調和(accord)をついに崩してしまったように思われる。ただ、「ポストモダン」を標榜する人類学者以前でさえ、人類学者にとって親族は主要な対象で無かっただろう。

  実際には、親族研究の「不在」は、以下の研究が示すように、人類学の別の領域へと移行したという事実に由来する。そしてそこでは新たな装いで、あらたな問題へと向かうものになっている。言い換えれば、親族の分析は人類学が何十年と堂々巡りし、誤った原理(false principles)のもとで不毛な問題に拘泥していた場所を捨て去ったに過ぎない。この空白期間は、何も死の宣告というわけではない。
  だけども、親族研究の始まりから見ていくことにしよう。

 

以下、メモ

・親族に関する知識

・簡単なフランス史(cohabitation...同棲?なぜ蔑視されていたのか)

 

 

 

 

Godelier, Maurice 2011, The Metamorphoses of Kinship. メモ②

pp.5-7.

  Generally speaking, then, in our society, marriage is no longer the act that founds the couple.
  Networks of related families exist and continue to lend* support to their members, beyond the boundaries of their birth or conjugal* families, especially in times of economic recession or youth unemployment. But these networks are beginning to shrink, contracting* around the axes of direct descent, and increasingly excluding close or distant collaterals*.
  What are the forces that have modified the forms and practices of kinship in Western societies since the mid twentieth century?
The first is the emphasis on the right to freely choose the other with whom to found a couple.
  The second force helping to reshape kinship relations arose out of changes in gender relations and the increasing social pressure for greater equality between the sexes in all areas of social and personal life.
  The third force that gradually affected the field of kinship and the family was the progressive valorization* of the child and childhood, whereby the child was no longer seen as a being more or less ‘incapable of reasoning’ but as already a person, one whose arrival* in the family was no longer endured but rather desired and even, thanks to medical progress, programmed*.
  All of these changes are borne along by a deeper current that did not arise in the field of kinship but witch flows through it and continuously acts within it, just as it courses* through all areas of social life and acts on them. It is the current that propels promotion of the individual as such, independently of his or her initial attachments to family or social group, that lends value to autonomous* behavior and the capacity* to take the initiative, to accept responsibilities, and that enables the individual to rise within the public and private institutions that constitute the economic and political structure of our societies.
  It has become harder to be a parent, and we are now seeing many families undergoing a profound crisis of parental authority, one that affects the father more than the mother in so far as* he was traditionally the one who embodied* the law and authority. We thus sometimes find, when the parents separate or divorce, a veritable dissolution* of the father figure.
  If the father and/or the mother remarry, the children find themselves in families composed of fragments of former families.
  In short, pulled hither and thither by these opposing and even contradictory* currents, the family at the dawn of the twenty-first century certainly no longer looks like the stable basis or keystone of society, if it ever was. And the increasing numbers of homosexual couples demanding the right to raise children they themselves did not engender add new uncertainties about the future of parenthood, the family and marriage.

 

pp.8-10.

  Globally, and with hindsight*, all of the changes that have recently occurred in the family appear to be in keeping with the overall evolution of Western democratic societies, witch favour individual initiatives and interests, and which therefore in principle reject despotic* forms of public – but also private – authority.
  No one foresaw this evolution when it began to emerge some ten years after the Second World War, and no one today knows exactly where it will lead.
  To say that the evolution of the family is linked to the global evolution of society as a whole amounts to viewing many pronouncements on marriage, the family, love and desire as so many ideological manifestos.
  It seems obvious that, between the demonization of today’s society and its ‘angelization’, there is room for another attitude that consists in* conducting a detailed inventory* of actual situations and practices before making a judgement. This attitude implies setting aside* theoretical assumptions and listening to what people have to say about themselves and others, about their past and their present, and trying to confront discourse with actual practice. To be sure, these discourses and practices must be placed in much longer time frame than that of an individual’s personal memories and references: this time frame is that of the modern history of European societies.
  Such an attitude entails combining various approaches and methods from the social sciences, first among which are those used by historians, who try to bring to life a past more often unknown than forgotten or invented, and those used by anthropologists, whose profession demands long immersion in a contemporary society and its observation, at a remove*, as it were, but also from within. What does the anthropologist have to say about this evolution?
  Let us imagine someone who knows little of the latest developments in anthropology but who is knowledgeable* about the social sciences and is now seeking quickly to discover what has become of kinship studies.
  Without necessarily returning to the founding fathers of anthropology (in particular L. H. Morgan, who in 1871 published his huge Systems of Consanguinity and Affinity of the Human Family), the mere mention of a few of the great names in the discipline – Pitt-Rivers, Kroeber, Radcliffe-Brown, Evans-Pritchard, Fortes, Murdock, Lévi-Strauss, Lounsbury, Dumont, Needham – all of whom owe something of their renown* to their contribution to kinship studies, should be enough to reassure the non-specialist that kinship is indeed an area in which anthropology excels and an object whose study is more or less its specialty.
  Our reader would therefore probably be astonished*, as she scrolls through the various available sources on the computer screen, to discover that the study of kinship has practically disappeared from the course lists of numerous American university anthropology departments as well as a certain number in Europe who have followed suit*.
  In the space of forty years, kinship – which seemed to have come out rather well in the many tough battles through which competing generations of anthropologists sought to define or redefine the object, its principles and (biological and/or social) foundations – had finally dissolved* of its own record*.
  In reality, as the rest of the present work intends to show, this apparent absence stems from* the fact that, far from having vanished, the object ‘kinship’ has emigrated to other areas of anthropology where it is being refashioned and linked to new questions. In other words, the analysis of kinship has simply deserted* those places where anthropology had been running in circles for decades, bogged down* in insoluble* problems by false principles. The blanks left by this desertion are not necessarily a sign that the announced death has occurred.
  But let us begin at the beginning.

  

pp.10-13.

MORGAN, THE FOUNDER

  Why begin with the American Lewis Henry Morgan? Because epitomizes* the contradictions facing anthropology from the start. At the same time, he also shows the conditions under which fieldwork and the interpretations anthropologists propose of what they have observed can slowly acquire a scientific character and constitute a new type of knowledge of the other and oneself, one that no longer merely projects onto this other the prejudices of the anthropologists and his or her culture, garbed in discourse borrowed from the exact sciences.

  (逐語訳)同時に、彼は示している・conditions(条件、状況)を・その下で・フィールドワークと解釈・人類学者が提出する・彼らが観察したことの(解釈)・徐々に獲得しうる・学問的特徴を・そして構成する・新しい種の知を・他者と彼自身に関する・つまり、そういう知(one)である・もはや単なる投影ではない・この他者に対する人類学者と彼/女の文化の(投影)・言説をまとった・正当な学問(科学)から借用した。
  (訳出)なぜアメリカ人のルイス・ヘンリー・モルガンから始めるのだろうか?その理由は彼が、初期に人類学へ直面した矛盾(No.6)を典型的に示しているからだ。そして同時に彼は、正当な科学(学問)から借用した言説をまといながら、条件を示している。その条件下では、人類学者が参与観察をし、人びとを観察した結果として示した解釈は、徐々にではあるが科学的特徴を獲得し、他者と自身に関する新しい種類の知識を形成しうるということだ。そしてその知識というのは、人類学者と彼/女の文化に由来する先入観の、単なる他者への投影ではない。

 ※conditionsがうまく訳せない。

 ※最後のgarbed in discourse borrowed from the exact sciencesがどこを修飾しているのかがわからない。

  By way of a reminder, let us recall that, in Morgan’s time (1818-81), the paradigm of scientific explanation was Darwin’s theory of the evolution of species. It was in this context that Morgan became fascinated by Indian customs and decided to devote his life to their study.
  While doing fieldwork among the Seneca, a tribe of the Iroquois confederation, Morgan discovered that their kinship relations displayed a logic of their own that was very different from that of the European and American-European systems.
  When he extended his study to other North American Indian tribes with different languages and cultures, he discovered that had the same structure as that of the Seneca.
Confronted with this diversity but also these convergences, Morgan decided to launch a worldwide survey of kinship terminologies and marriage rules.
  Thanks to their replies, Morgan was the first person in history to dispose of such a quantity and diversity of information on kinship practices in societies dispersed widely over the face of the earth.
  We thus see how Morgan endowed anthropology with one of its objects of study (kinship), with a method for studying it (the genealogical questionnaires), and with a first batch of findings including the discovery of some of the rules non-European societies had chosen to organize ties of descent and alliance between the individuals and the groups that make up these societies.
  But all this was possible only because of Morgan’s remarkable and persistent effort to decentre his thinking with respect to the categories of his own (Euro-American) society and culture.
  Morgan’s approach thus marked a profound rupture with the spontaneous ethnography practiced by missionaries, military officers, colonial administrators, traders and other representatives of the Western world, all of whom had been striving since the sixteenth century to improve their knowledge of the customs of the populations they were trying to convert, control or administer, and who had, in certain cases, set down their observations in letters, reports or accounts of their travels.

 

pp.13-14.

THE INCOMPLETE DECENTRING

  But there is another side to Morgan’s work. As soon as his Systems was published, he turned to the task of marshalling* all his data and analyses with a view to* reconstructing, as so many were attempting at the time, the evolution of humankind.
  In short, the same man who had managed to decentre his own thinking with regard to Western categories and had engendered a new discipline, this time around harnessed* his findings to a speculative* ideological version of history that – once again, though now with new arguments – made Europe and America the mirror in which humankind could at once contemplate* its origins and measure its evolution, in a process that had left a great number of peoples far behind.
  In the end, by presenting the Western nuclear – and monogamous – family as the most rational form of family, as that form in which the ‘blood’ ties connecting a child to his or her (real) father and to his or her (real) mother were finally visible, Morgan, despite his efforts to decentre his thinking with regard to the values and representations of his own society, was never able to treat the Western way of organizing kinship, the family and marriage as merely one cultural model among others, a model that was just as ethnocentric and therefore equally as ‘rational’ or ‘irrational’ as the others.
  For decades following Morgan, hundreds of field surveys confirmed the importance of kinship relations in the functioning of these societies.

 

LÉVI-STRAUSS AND HIS CRITICS

NOTE:

Morgan : had made the exclusion of incest the driving force behind the changes in the family and in kinship relations, and one of the conditions of human progress.

Lévi-Strauss was implicitly in agreement with Freud.

 

pp.14-17.

  Once kinship ties began to appear as the very basis of these societies, their study was regarded as providing the key to understanding the way societies worked.
This in turn resulted in a proliferation* of studies on the subject, including works by some of the biggest names in anthropology, making kinship studies the lynchpin of the new social science.
  Lévi-Strauss changed the scope of kinship studies by postulating that the incest taboo had been the primary condition both for the emergence of kinship relations and for the appearance of ‘genuine’ human society, henceforth separate from the animal-like state and pursuing its development in another world, a man-made one, the world of culture.
  The goal thus singularly outstripped the standard theoretical ambitions and limits of anthropology, and of the other social sciences taken separately.
  Yet, in The Elementary Structures of Kinship, Lévi-Strauss paid scant attention to the fact that Freud had based kinship relations on the exchange of women and had made this exchange the consequence of the incest taboo.
  With Lévi-Strauss, it was possible to believe that the study of kinship, thus elevated, had a considerable future and that its importance would no longer be contested.
  But the edifice was already cracking under the strain of criticism from various parts. Feminist anthropologists, for instance.
  Leach, for his part, having greeted Lévi-Strauss’ ideas with interest and introduced them in Great Britain, later undertook a critique.
  Leach’s iconoclastic blow was to be followed by many others, and they came from the two British temples of anthropology of kinship: Cambridge and Oxford. One after another, the concepts of kinship, marriage, incest and descent, together with Meyer Fortes’ notion of complementary filiation, prescription or preference in the choice of a spouse in elementary systems, were dissected and confronted with various facts that contradicted the accepted definitions.

 

ゴドリエ、モーリス『人類学の再構築 人間社会とは何か』序章

2011年、明石書店、訳者は竹沢尚一郎、桑原知子。
序章「人類学はなんの役に立つのか」

●内容概略
序章ではゴドリエの、人類学に対するスタンスのようなものが述べられている。
まず前半では、近年の人類学を取り巻く「危機」が述べられ、人類学の宿命、今日の世界の概観および人類学の立場、そしてゴドリエの見解のようなものが続く。
後半では、『文化を書く』などで見られる問いに対する、ゴドリエの考えが記述される。この辺りは、いままでのゴドリエの考え方のまとめのような部分でやや抽象的。

●感想
「人類学者の政治性はどうなのか」とか、「民族誌は結局フィクションなのでは」という問いに対してゴドリエはいくつかの答えを提示している。

人類学者の政治性についての答えの一つとして、
「ようするに、人類学者の認知的自己とは単に知的な自己であるだけではない(それは社会的自己の特殊ケース以外のものではない)。それは同時に、そして必然的に、倫理的自己であり、政治的自己である。」[:54]
補足:
・倫理的(職業倫理的)とは、参与した社会に対する人類学者の理解の仕方を参与した社会の成員と議論すること、そして自身の研究の出版がもたらしうる結果について意識的であること。
・政治的とは、「自分の仕事を遂行する歴史的コンテクストについて意識的」であること。


あるいは、「「文学的」テクスト」に対する答えを提出する。民族誌は、「文学的」テクストではない、という答えだが、その理由は二つあり、
ソフォクレスシェークスピアなどの登場人物と異なり、人類学者が参与する社会は、彼が参与する以前も以後も存在しているから。つまり、複数人によって記述されることが可能である。たとえば、マリノフスキーが参与したクラについて、彼の死後も多くの人類学者によって観察され、その記述がより豊かなものになっているのである。
ソフォクレスシェークスピアなどの作品は、彼らが作りだした世界なのであって、彼らが書く以前には存在しないし、書いてはじめて存在するので、著者の死後それを補うことも訂正することも不可能だから。つまり①のように、言い換えればクラについて補うようには、シェークスピアを補うことはできない。

・・・

ゴドリエはマリリン・ストラザーンのように、スティーヴン・タイラーを引用して問いの輪郭を浮かび上がらせようとする箇所があった。そして、問いに対して答えてはいたものの、方法の定式化という点では、ハラウェイを援用したストラザーンの方が、うまく作りあげた感はある(サイボーグを用いた視点の構成など)。
ただ、両者の比較は自分にはできるはずもなく、とりあえず続きを読む必要があることはわかった。

Godelier, Maurice 2011, The Metamorphoses of Kinship. メモ①

pp.1-3.
(Introductionから)

・20世紀の最後の30年は、家族関係や家族についての考え方において、変動(upheaval)が見られた。同時に、私たちは人びとの生活における甚大な変化も見た。
・いくつかの事実がこの変化を実証している。
 =結婚の減少、別居や離婚の増加など。そしてこれにともなう再婚した家族や父子(母子)家庭の出現および増加。
ただ、婚姻上の家族が変容する中で、結婚の軸(axis)は弱くなろうとも、認知(filiation)の軸はいまだなお強固である。つまり、「誰の子どもであるか」については、私たちの考えは強固であると思われる。
・しかし、認知それ自体ももはや自明ではない。というのも、近年の生物学における発見や新しい生殖技術の登場によって、それを定義することが非常に複雑になっているからである。たとえば代理出産など。
ここから生じる疑問:「本当の」母とはいったい誰であるのか?
・ただ、これらの変容が親族の世界(the world of kinship)を深く変えようとも、ヨーロッパにおいて長らく親族の定義および表象(representation)の基盤であった原理を揺るがしているわけではない。
 その原理:親族とは基本的に、生物学的、系譜的つながり(tie)両方の世界である。そしてそのつながりというのは、時間的に連続した異なる世代間、あるいは同世代間の、同性または異性の個人間でのつながりのことである。
・にもかかわらず、以前は禁止されたり抑圧されたりしてきた「夫婦(unions)」が、ここ20数年来で、明るみに出るようになったし、程度の差こそあれ世論にも暗黙に受け入れられるようになった。
・ここで私たちは二つの逆説にあう
:同性カップルは結婚を求める一方、異性カップルは結婚を避けつつあるという逆説。
:同性カップルにおいて、親であること(parenthood)というのは、単に多かれ少なかれ社会的、感情的なリアリティであることによって、十分に実現されうるものであるという逆説。
・これらの現代の展開(development)は今一度、親族に関する人類学の秀でた役割を確認するものであるかもしれない。そしてそれは、多くの法学者、政治家、心理学者たちによって実証されてきたかもしれないことでもある。
だが、人類学者はいまだ親族に関する興味はあるのだろうか。人類学者は親族について1980年代にも関心を持つことをやめてしまったのではないだろうか。
・人類学の花であり得意分野であると考えられてきた親族の研究について確かめる前に、私たち自身の親族システムの原理について振り返ってみよう。
(.....our own kinship system.まで)

 

pp.3-5.
(The Western European system...から)

・西洋のシステムには3つの構成要素があるのだが、それは私たちの社会で親族関係の深層構造(deep structure)を維持するよう、私たちを互いに結びつけるものである。そしてそれは、西洋人が生まれ育つときのフレームワークである。
・3つの構成要素
 :一夫一妻である核家族
 :姻戚あるいは血族によって関係した家族のネットワーク
 :自己を起点とした親族(Ego’s kindred)

・親族の分野を成すこれら3つの要素は、アンシャン・レジーム下で存在した。しかし、これらは他の要素とも関連していた。それはフランス革命と1804年のナポレオン法の発布の後に消えてしまったか、新しい社会での状況の変化とその変化による新たな道徳、性に関する秩序にさらされたりしたか、というものである。
アンシャン・レジームに特有のこの、価値、実践、権利の形状(configuration)は、1804年の「市民的な」結婚の制度とともに変化し始めた。
・19世紀では、同棲はいまだ汚名を着せられていた。
その汚名:同棲は、低階級の人びとによる、あるいは社会のしきたりを守らないことを選んだ個人による実践である、という汚名。後者は例えばアーティスト(artists)
・そして結婚は、市民的なものにせよ宗教的なものにせよ、カップルをつくりだした(founded)行為(act)だった

・以上、19世紀をさっと概観したが、これは1960年代以来増加してきた変化を示すためのものに過ぎない。1960年代というのは、変動のはじまりの中で新しい社会が形を帯び、広がり始めた(began to thrive)時期だった。そしてこの変動というのは、第二次世界大戦とその後の世界の二分という局面までに西欧でつくられた(wrought)ものだった。
・1970年のフランスでは、父の権威(authority)という考え方は放棄され、親の権威というものに取って代わられたが、これは父母双方に平等に共有されたものであった。そしてこれは、親に対して責任を申し付けた(enjoined)のだった。何に対する責任かというと、道徳、安全、教育、健康、さらには別居や離婚に関する責任であった。親の権威は、こうして公衆の秩序のための機能(function)とみなされ、これは国によって保証されたのだった。
・1975年にはフランスで、「相互の同意」による離婚が可能となり、2009年には結婚したうちの39%が離婚している。
・というわけで、一般的に言って、私たちの社会では、結婚はもはやカップルをつくりだす行為ではないのである。

(Generally speaking, ... no longer the act that founds the couple.まで)

以下メモ。
・親族論に疎いので、適切な訳語がわからない。かつ、単語の意味も汲み取れない。
・歴史的背景を学ぶ必要がある。
・英語の一文が非常に長いことがあり、訳出が大変。ただ、構造ははっきりしていて読みやすい。

「endless 山田正亮の絵画」

 ずいぶん前のことだが、東京国立近代美術館で開催されている「endless 山田正亮の絵画」へ足を運んだ。
感想から言うと、非常に良い展だったと思う。ルールをわからず言うと、自分は展示されている絵画から判断して、山田正亮は「色、対象、見るということ」をひたすらに探求していたように思えた。


山田正亮(1929-2010)は、「絵画と契約」した男です。その背景にあったのは、少年期の過 酷な戦争体験。罪もない多くの人々の理不尽な死を目の当たりにした山田は確かな価値を求め、なぜか絵を描くことにその身を託し、その後、半世紀以上にわたり、ひたすら描き続けました。かれにとって一枚一枚の作品の制作は、常に身を削るような真剣勝負。一見みな同じようなストライプに見えても、それぞれの作品はみな違った表情と個性を持ち、何層にも重ねられた絵の具が、とても豊かな視覚体験へと誘ってくれます。5,000点を超える山田の絵画のなかから選りすぐられた219点を通して、今日にあっても衰えることのない絵画の力を、そして、描くいとなみの奥深さを実感していただければ幸いです。ただし、めまいにはご注意を。
(パンフレットから引用)


ここからもわかるように、山田は生涯を通じて作品を制作し続けた。まさに「絵画と契約」した男といえるだろう。いったい彼は、制作を通じて何を求めていたのだろうか?実際に見に行った感想と、パンフレットをもとに(ルールを無視して)書いてみよう。


「最初の記憶」――最晩年の制作


 展示はまず、「Color」と題された山田の最晩年の作品から始まる。入り口には9つの絵画が展示されている。青、赤、緑・・・。単純な「色」が配置されているように思える。色・・・。
山田によれば「色彩というのは画家にとって最初の記憶みたいなもの」であるという。「最初の記憶」が最晩年に描かれたというのは興味深い。
 展示を見に来た人にとっては、よく意味が分からないように思える。しかしながら、展示を巡り終えるころには、なぜ「色の絵画」が展示してあったのか、氷解するかもしれない。


作品の変遷――静物画、解体、アラベスク模様、長方形


 初期の仕事は静物画ではじまる。これらの作品は、実際の写生からではなく「記憶から描かれた」とのこと。最初期にくりかえし登場する砂糖壺は、さまざまな配置のなかでことなった表情を見せる。(Still Life 1948-1955)
 しかし、砂糖壺をはじめ描かれていた「具体的な」物たちは、次第に空間との境目があいまいになっていく。
 そして、いつしか完全に静物画のモチーフは解体され、渦のようなかたちのアラベスク模様のなかから、だんだんと長方形が浮び上がり、やがてきっぱりとした長方形だけの画面が生まれる。(Work B 1956-1959)


作品の変遷――
(編集中)

AKDENIZ

池袋のトルコ料理店に行った。

値段もそこそこ安いし、なにより美味しい。

店内の雰囲気も良かった。

 

池袋駅周辺は非常に栄えていて、歩いていて楽しかった。

こういう繁華街の中で過ごす大学生活も面白そう。

 

 

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 店内入口。ベリーダンスショーを行う日もあるそうだ。

 http://akdeniz.jp/