2220円の旅
バスを乗り逃した。
ある駅から発車するバスで、発車時刻は10:30。
私はその駅に向かうために、電車に乗った。駅に到着する予定時刻は10:21。
バス停は駅前なので、改札を出てから1分くらいで着く。21分に着くなら(余裕はないだろうが)大丈夫だろうと思っていた。
ところが、今日は電車の遅延で8分ほど駅への到着が遅れてしまった。
不安になりつつ、車両の扉が開くや否やホームを駆け下り改札を飛び出す。バス停へ向かって走る…しかしバス停まで50mほどのところで、私の目の前をバスは過ぎ去って行った。
乗り逃してしまった。あーあ。自分の余裕のなさを改めよと、どこかで言われているような気がした。
バスは、およそ150キロの区間を2220円で運んでくれる。
とても安いと思う。
その2220円は私の元へは、もちろん帰ってこない。
バスは、予約した私の名前だけ乗せて、空席のまま長い旅路を行くのだろう。
ムダになった2220円について、様々な考えが頭を巡る。
2220円くらいこれからの節約で取り戻せる…たった2220円で済んで良かったではないか…でも2220円あれば結構いい中古の本が買える…いやこれまで2220円以上得してきたはずだから、そのぶんだと思えばいい…あのときも某におごってもらったし…そもそも自分がだらしないからだ…そんなことはない遅延した電車が悪い……というかなぜ自分が遅延に巻き込まれたのか…
ひと通り堂々巡りの問答を繰り返したあと、2220円に対して自分は何をしているんだろうと思った。
行く先のわからない2220円。私の2220円は、どこへ行くのだろう。バスの運転手の給料だろうか、バスのガソリン代だろうか、経営者の懐だろうか…
お金の、どこからきてどこへ行くのかという部分は見えにくい。というかほとんど見えない。
わかることは、私は150キロを運んでくれる手段として、新幹線ではなく鈍行列車でもなく、2220円のバスを選んだことと、
そのバスを乗り逃したこと、そしてその運賃は払い戻されないということだ。
2220円は、なんだろう。私のバイト代、仕送り、その他収入、あるいはもっと前…どこからきたのか?そしてどこへ行くのか…。
お金を用いることを通して、私は何をしているのか?
まずあげられるのは、サービスをお金で支払うということだろう。
バスを選び、運賃として2220円を支払う。そのぶんのサービスを受け取る。この場合はある程度安全に目的地まで運んでもらうことだ。
だけども、今回私はサービスの受け取りに失敗した。出発の時間が過ぎてしまったためだ。
そしてそのあとに、このブログを書くという行為も含めて、いろいろと考えている。
その行為のひとつに、2220円という金額を通して過去を回想したり未来の過ごし方について思いを巡らせたり、というものがあった。
そこでは、過去の出来事を根拠に2220円の価値を捉え直したり、自分が目の前の不利益を被ったことに対する理由づけをしたり、将来は節約しようとしたりしていた。
2220円の価値と書いたが、一体2220円とは何の価値を表しているのか。
サービスの値段であることは間違いないが、その値段の中にもいろいろな要素があるだろう。たとえば人件費や経費など。
そして2220円は何もバスの運賃だけを表すのみならず、様々なものの価値を代弁する。
私が出来事を解釈する際、基準となったのはこの2220円だった。
2220円を基準として、いろいろな出来事を判断していた。
あのとき得したから…いい天気だから…おごってもらったから…いいことがあるはずだから…
その時々で、2220円を支払うだろう。そして2220円が手元にあるのは、その2220円分の何かが私や私の周囲にあったからだろう。
ふと思えば、どうしてバス会社の提供するサービスの価値は2220円なのか?
より正確にサービスの価値をはかろうとするならば、2221円や2219円82銭でもいいだろう。電子マネーならば尚更だ。
何がそのサービスの価値をより正確に映し出すことができるのか。
ただしこのように書くと、日々のサービスの本当の基準がどこかにあり、それをより的確な形で表現できるのが、今のところお金である、と言っているようだ。
しかし、お金が代弁するのではなく、
むしろお金それ自体が基準を作り出すとも言えそうな気がする。
というところまで書いて、結局うまくまとまらず、散漫なまま、何が言いたいのかわからなくなってしまった。
交換と比較のスケール
お金という基準の適用範囲
こんなようなことを、本で考えてみよう。まだまだ先になりそうだけど。
これはまた読みたい。
身体的な経験の共有について
1.介護における「わからなさ」
2.「わからなさ」という身体的な次元の何か
3.「わからなさ」を伝える方法と問題点
4.おわりに
1.介護における「わからなさ」
普段、介護のボランティアを通じて「要介護者」と呼ばれる人たちに接している。なかには認知症の人や、言葉ではうまくコミュニケーションが取れない(かもしれない、と考えられてしまうような)人がいる。
介護には(ケアの受け手をめぐる)「わからなさ」が付きまとうという。このような指摘は、介護やケアと言ったキーワードを扱う本であれば、分野を問わず見ることができるだろう。もちろん人類学や社会学の本にも多く見られるのだが。
2.「わからなさ」という身体的な次元の何か
ケアや介護を研究対象として記述をしていこうとするとき、疑問に思うのは、以下である。上のような「わからなさ」を、そういった経験が無いような人(たとえば介護に関わったことのない人)に対して、どのように伝えることができるのか?
もちろん、ケアや介護の分析は(人類学的にせよ社会学的にせよ)記述しうるものだろう。本がたくさん出ているのだから、言うまでもないことであると思う。
ただ、その「わからなさ」というのは、本を読む際の一つの前提になると感じる。
もう少し具体的に言えば、本を読むときに、「わからなさ」がわかるということが前提としてある場合とない場合では、読み方も変わってくるのではないか。
本の記述とは別に、こういってよければ、身体的な意味での「知」みたいなものがあるように感じる(もちろん、書かれたものとしての知識と身体的な次元での「知識」は重なる部分もあるのだろうが、そこはもう少し勉強が必要…ただ「勉強」の意味も考えてみてもいいかもしれない)。
そういった身体的な次元での「知識」って、結構日常にはあふれていて、それが自身の行為の前提となったり、何かしらの判断の基準になったりすることは多々あるのではないか。自転車に乗ることや、水泳なんかはそう言えるだろうか。
そして、たとえば介護やケアの「わからなさ」は、家族介護者の会でなじめるかどうかにおいて一つの基準になっていたりするように思える(家族介護者の会に来るくらいだから介護はしているんだろうけど…)。
3.「わからなさ」を伝える方法と問題点
こう考えたとき、その経験の共有をどうしたらできるのかは、一つのテーマになるかもしれない。
今思うのは、演劇や映画のインパクト。イメージのまま伝わるという特徴。自身も「巻き込まれている」感じが強いのはやっぱり演劇や映画かなと思う。
ただし、演劇や映画が「わからなさ」の再現(再演)を目指す時、受け取る側にはどういうタイプの知識が伝わるのかということは問題だと思う。
身体的な経験を伝えようとするのだから、いろいろなアクターの配置が必要になるだろうし、その配置の仕方によっても経験の種類は変わるだろう。
再現はrepresentationとも言い換えられるかもしれない。つまり結局のところ表象にすぎないという指摘はありえそう。意図したものとは異なる経験が受け手の身体に刻まれることは十分にあるだろうし、というかほとんどそうなのかもしれない(それはそれで興味深いが)。
だからと言って、「実際に介護をしてください」というのも無理がある。
4.おわりに
人類学などにおいて、身体技法(モース)やハビトゥス(ブルデュー)、身体知や暗黙知(M.ポランニー)などといった概念がみられる。あるいはジュディス・バトラーの身体に関する本だったり。
というかむしろ、人類学者のフィールドワークという経験が、身体的な知識の獲得なのかもしれない。(多くの場合は)住み慣れない場所で長期にわたって、半分現地の人で半分外部の人として過ごすことが人類学者であることの根幹をなすならば、フィールドワークは身体的な意味での知識を得るための手法なのだろう。いろいろと恥ずかしいくらいに基本的なことなんだろうけど。
ただし、介護に関していえば「わからなさ」という部分をどう理解し表現するかは検討が必要だろう。「身体的」と言ってきたが、「わからなさ」の経験は何か動作(たとえば自転車に乗ったり川で泳いだりという動作)を伴うというよりは、ケアの与え手が受け取ったり感じ取ったりする何かであると思うからだ。そして介護と一口に言っても一様ではないのだし。
身体的な次元での知識、その表現(再現、表象)方法、それにともなうアイデンティティや集団の形成など…。このあたりはきちんと論拠を据えつつ考えてみたいテーマではある。