私と雑巾

 

 

最近よく、目の前の課題を終えたあとのことを想像する。

これを終えたら何をしようか。

何をしようかと言うのは何を食べようかとかどこへ出かけようかとかと言うよりは、何か自分の進路に関わるような何かである。

 

自分は何の人なのか?

文字の人なのか、絵の人なのか、つくる人なのか…。

きっとこういうのはバッサリとカテゴリーにわけられるものではなくて、どこかで混ざっているんだろうけど、それでもやはり違いはあるだろう。

 

 

これまで考えてきたことを振り返って、もしかしたら自分は文字の人ではないのかもしれないと、頭を傾けて考えてみる。

どんな文章も自分の言葉ではない気がする。

ここでいう文章は、短かったり長かったりするものだ。ひと言や、一行にみたない文字、あるいはもっと長いまとまった文章であったりする。

 

ちょっと物思いにふけって、誰かの詩や曲の言葉を身にまとって、それとなくいい気持になってつらつらとあてどなく文章を書いたりした。

そういう時は決まって途中から、なんだか自分の気持ちはどこかへ行ってしまって、借りてきた言葉に引きずられて、書きたかったはずのことが霞んでしまう。なんだか上っ面をなでる感覚になっていく。

こんな言葉じゃないのになと思って、書いては消す。いつの間にか、浮かんでいたはずの描きたい気持ちみたいなものは消えていて、中途半端に残った書きかけの文章だけが残っている。

 

誰かから借りてくるしかないのだけど、でもやっぱり違うなと感じて頭を悩ます。(しかし…借り物だからといって自分の言葉にならないわけではなくて、その言葉の責任はこの自分にキチンと寄り添ってくる。そういう意味では「自分の」言葉なのだけど…)

 

じゃあ絵なのか?絵でもきっと、まだまだ描けはしない。

 

 

「じか」の自分(の言葉だったり絵だったり)なんてないのかもしれない。

それでも、自分を雑巾だと思って力を入れてギュッと絞ってみれば、ポトリと何か出るかもしれない。出てきてほしいなあ。

 

仮に一語や二語の短い言葉や、小さな一コマを描いた絵しか出てこなくても、草木が根をはる土のように身体になじむ(草木がたぶん土に馴染んでいると想像しつつ。)ものだったら、それだけで最高な気分になれるだろう。

 

 

食事をするときも、トイレに行くときも、お風呂に入るときも、夜眠るときも、どんなときにも付いて回るような、そんな言葉や絵があったらいいのかもしれない。

 

でもたぶん、そこに行き着くまでには相当長い道のりがあるんだろうな。

あるいは、すぐ隣にあって、それが見えないだけなのかもしれない。

真正性の水準とケア

文献の引用。とくにまとまりはないが、あらためて見返すために。

ケアの議論で、ケアとは関係性そのもの(対人関係そのもの)であるというような主張がなされることがある。

 

たとえば三好春樹は、以下のように述べる。(直接引用ではないが)

渡辺さんは、真正面からアプローチせず、ソファに座っている痴呆性老人の隣にぴったりくっついて自分も座るのだ。三好も真似をする。宿直の夜、いつもは老化をウロウロして落ちつかないMさんが、一人でベランダのベンチに静かに、座っている。

私は何も言わずに体を寄せて座る。並んで座ると同じ景色を見ることになる。彼は夕日が沈んだあとの西の山を見ていたのだ。並んで座っていると言葉がいらない。一緒にいるという感覚が最初からあるのだ。[208]

三好は横を向いて彼の様子を見てみる。するとむこうもこちらを見て、ニタッとする。仲間という感じだ。向き合うと、『ワーカーとクライエント』になってしまうのと対照的である。[208]

介護は介護力ではなくて介護関係である。

 

渡辺さん…特別養護老人ホームの寮母。30年ほど前の話。介護福祉士も二級ヘルパーといった資格も何もない時代の人。「パワーがあるがデリカシーのない人」[204]。

「彼女が先にベッドサイドへ行くと、何も言わずに布団をとり、抱き上げようとしてしまうから、老人は抵抗する。すると『風呂に入れてやろうと思ってるのに』と説教をし始める始末である」[204]

『ケアの社会倫理学』(2005年)から引用。

 

大まかに言って、介護関係≒対人関係と考えられるだろう。

 

一方で、上野千鶴子は『ケアの社会学 当事者主権の福祉社会へ』(2011年)のなかで、次のようなことを述べている。

・ケアというサービスの判定は、最終的には本人によってなされなければならない。

・ケアの与え手も受け手もどちらも満足してはじめて相互行為としてのケアが達成される。

・当事者(要介護高齢者)は、自覚的に当事者に「なっていく」ことが大事である。

 

以上のような上野の主張に対して、青木恵理子は「「よいケア」を形成するためには、当事者(高齢者)はケアの善し悪しを判定する能力を身に着ける必要があり、そのための「消費者教育」が必要であるとする」[130](「ケアの人類学ノート」2014年)とまとめている。

 

[三好 2005]のような人間関係そのものと言いうるようなケアの関係に、ケアの判定という基準を持ち込むこと[上野 2011]はケアをどうとらえさせるだろうか。ただし、[三好 2005]で想定されるケア=人間関係=よいものであって、上野の言うケア≒人間関係≠よいもの(かならずしもよいとは限らない)のような微妙な違いがあると思われる。

 

一方では「顔の見える関係」(三好とMさんのような)としてのケアがあり、もう一方では「消費者教育」が必要な、どちらかといえば市場交換に近いようなケアがある。前者は、代替不可能な関係であるのに対して(三好もMさんも両者にとってかけがえのない存在)、後者は、おそらく関係の代替可能性を含んでいる(与え手がよいケアを与えられないなら変わることが要請されるだろうし、なにより制度の上で成り立つような関係ゆえに、極端なことを言えばMさんへのケアは三好でもBさんでもCさんでもよいかもしれないからである。その人がよいケアをもたらす限りにおいて)。

もう少しいえば、三好はケアを関係性=あまり形が無い(区切りがあいまい)ようにとらえ、上野はどちらかと言えばケアを商品性=まとまった形をとりうるもの(善し悪しを判定するのだから、区切りが必要)としてとらえているように思える。

だからこそ、ケアという商品が交換の経路に乗せられることも可能になるのだろう。

ただ、同じ「ケア」という用語を用いて同列上で議論するなら、これらはねじれているのではないか(という気がする)。

 

小田亮は、レヴィ=ストロースを参照しながら、「二重社会論」を提唱しているが、それは「真正な社会」と「非真正な社会」とを区別するものである。これをふまえて上記のような「ケア」のねじれとでも言えるようなものについて、考えられたらおもしろいんじゃないかなと思っている。

前置きが長くなったが、以下、引用。

 

青木恵理子2014「ケアの人類学ノート:『ケアの社会学』の批判的検討をとおして」『龍谷大学社会学部紀要』44:127-134。

p.132「私たちの社会においても、社会的構築性の水面下で真正性が生活のリアリティ

と道徳性を支えている。」

「身体的相互行為のもつ直接性により、先進国社会か発展途上国社会、欧米社会か非欧米社会かにかかわらず、それは真正性の水準と切り結ぶ。この点から、ケアの人類学的理論化は、コミュニティおよび共同性の理論化にもつながっていく。」※田辺繁治『ケアのコミュニティ』参照

レヴィ=ストロース、クロード1972『構造人類学』みすず書房

p.407-408「われわれの他人との関係は、折にふれての、断片的なもの以外、もはや、あの包括的な経験、つまり、一人の人間が他の一人によって具体的に理解されるということにもとづいてはいない。われわれの人間関係は、かなりの部分、書かれた資料を通しての間接的な再構成にもとづいている。われわれが過去に結びあわされているのは、もはや、物語り師、司祭、賢者、故老などの人々との生きた接触を意味する口頭伝承によるのではなく、図書館につまった本によるのであり、それらの本を通して、鑑識力が骨折ってその著者の表情を再現するのである。現在の面では、われわれは、同時代人たちの圧倒的な大部分と、あらゆる種類の媒介――書類、行政機構――によって連絡しているのであるが、これらの媒介は、多分、途方もなくわれわれの接触を拡大してはいるが、しかし同時に、われわれの接触に、まがいものの性格を付与しているのである。このまがいものの性格は、市民ともろもろの権力とのあいだの関係の特徴にさえなっているのである。」

p.408「3万の人間は、500人と同じやり方では一つの社会を構成することはできない」という区別。

 

小田亮2010a「二重社会論、あるいはシステムを飼いならすこと」『日本常民文化紀要』28:256-226

p.239「〔非〕真正な社会のシステムが一般化された媒体を介して真正な社会に入り込んでいる近代社会においては、もはやその二つの異なる社会の様式はかならずしも空間的に境界づけられてはいない(もちろん、村やあるいは都市であっても、空間的にまとまっている真正な社会=共同体もまだ存続している場合もある)。そこでは、真正な社会と非真正な社会がいたるところで節合(切り離されつつつなげられている)され、重ね合わされ、交替しあっている。同じ人との関係も、代替可能な関係と代替不可能な関係との間を行き来している。たとえば、教員と学生との関係は、制度全体から意味づけられた〈顔〉のない役割関係であり、代替可能な関係でもあるが、それはまた、師弟関係という〈顔〉のある代替不可能な関係にもなりうる。このような二重社会において、ひとは真正な社会と非真正な社会という異なる二つの社会の様式のあいだを絶えず行き来している。」ただし、〔〕は引用者。

 

小田亮2009a「「二重社会」という視点とネオリベラリズム――生存のための日常的実践――」『文化人類学』72(2):272-292。

p.273「「二重社会」という用語は、直接的には、湖中真哉[2006]が最近みごとによみがえらせた、J・H・ブーケ[1979]の二重経済論の前提となる「二重社会(dual societies)」という用語を採ったものだが、それを、レヴィ=ストロースの「真正性の水準」という議論の帰結を表すものとして用いている。本稿で示したい「二重社会」という視点とは、「近代以降、ひとは、真正な社会と非真正な社会という異なる社会の様相を二重に生きている」というものである。」

p.274「この「ほんもの(真正性)」と「まがいもの(非真正性)」という用語は本質主義批判のなかで評判が良くないが、ここで言われている「ほんもの性=真正性」は、カテゴリーを固定的に捉えた本質主義的な真正性とはまったく異なり、「あの包括的な経験、つまり、一人の人間が他の一人によって具体的に理解されるということ」による、カテゴリーに還元することの不可能な複雑性と単独性を意味している。他方、「まがいもの性=非真正性」は、その複雑さの縮減、いいかえれば規格化され単純化された一般性(カテゴリー)への還元、比較可能なものへの還元ということを意味している。つまり、本質主義批判のなかで攻撃されている真正性は、むしろこの区別では非真正性に属している。」

「真正な社会は、具体的には、それが近代社会や現代の都市におけるように近隣や職場というかたちをとっていても、〈顔〉のある関係からなる、小さなローカルな共同体として存在している。」

p.280「また、二重社会という視点から見たとき、ネオリベラリズム体制は、一般化された媒体によって、非真正な社会での比較可能で数量化された価値=意味を生活世界にまで貫徹させようという傾向をこれまでになく強めているシステムだと言うことができるだろう。」

p.281「ネオリベラリズムとは、グローバルな資本主義における短期間でフレキシブルな資本蓄積のために、規制緩和や雇用形態のフレキシブル化といった政策によって流動性を推進させ、経済的不平等を拡大・再生産して階級権力を再確立し、その経済的不平等を、自己実現の称揚と自己選択=自己責任からなる「個人化」のイデオロギーによって正当化する体制を指す。」

→森田良成のアナボトルの話、春日直樹のフィジー人の話が参考になるか(『人類学で世界をみる』)

p.284「巨大なシステム(非真正な社会)に包摂され、一般化された媒体を通してそのシステムの問題(グローバリズムネオリベラリズムの問題)が生活の場に浸透している状況で、「『問題-解決』型の思考」[春日 2007]によって解決できないという閉塞感のなか、なおもその変換の日常的実践は希望となりうる。それは、人は一般性-特殊性にもとづく非真正な社会のみを生きているわけではないという単純な事実からくるものなのである。いいかえれば、真正な社会が維持されていて、非真正な社会から真正な社会へと媒介する一般化された媒体を、真正な社会においてつねに/すでに変換している(一般性を崩している)ということにこそ「希望」がある。」

p.285「「温かいお金」とされる、頼母子講(無尽講)や地域通貨などのいわゆる連帯経済も、非真正な社会における資本主義を排除するものではない。それは、贈与交換とも異なっているものであり、いわば、贈与交換と市場交換を変換の実践によって接合したものなのである。」

→「温かいお金」の説明。あと、ケアの交換が贈与交換なのかは要検討。

p.286「それら連帯経済は、一面では、市場経済の不全を補うためのものでもあるが、それだけではない。それは、湯浅誠[2008]がいうように、貧困者に対するNPOの支援が、たんに公的セーフティネットが削られたことを補うものではないのと同様である。金銭的なセーフティネットだけでは、人間関係の“溜め”や精神的な“溜め”を増やして貧困から抜け出すことはできない。たとえば、慈善による民間のセーフティネットは(それももちろん大事な“溜め”ではあるが)、当事者間の人間関係の“溜め”をつくるものではない。そのような慈善とは違って、連帯経済の重要性は、たんに市場経済の不全を補うものではなく、社会的連帯の上に作られながらも、その基盤となる人間関係を作っていくものでもあるという点にあるだろう。いいかえれば、その重要性は、非真正な社会のシステムを維持することにあるのではなく、真正な社会を維持するものになっていることにある。そして、それは、真正な社会における日常的実践とつながっていることに支えられているのである。」

→論文の注釈15)を見よ。社会的連帯については10)

p.286「「包括的な経験、つまり、一人の人間が他の一人によって具体的に理解されるということ」にもとづく社会関係、ある意味では煩わしいそのような社会関係」

p.287「筆者は、「一人の人間が他の一人によって具体的に理解されるという、包括的な経験」からなる真正な社会での社会関係を、単独性を含意させた〈顔〉という語を使って、「〈顔〉のある関係性」と呼んでいる[小田 2009]」

p.287「「一般性-特殊性」と「普遍性-単独性」という用語は、柄谷行人[1994]から借用している。ただし、ここでの意味と柄谷のいっている意味にはすこしの、しかし決定的な違いがある。」

 

小田亮2010b「真正性の水準と「顔」の倫理――二重社会論に向けて――」

 

 

参照文献

湖中真哉2006『牧畜二重経済の人類学――ケニア・サンブルの民族誌的研究』世界思想社

ブーケ、J・H 1979『二重経済論――インドネシアにおける経済構造分析』永易浩一訳、秋菫書房。

小田亮2009b「生活の場としてのストリートのために――流動性と恒常性の対立を超えて」『国立民族学博物館調査報告81 ストリートの人類学 下巻』関根正康編、pp.489-518、国立民族学博物館

柄谷行人1994『探求Ⅱ』講談社講談社学術文庫版)。

湯浅誠2008『反貧困――「すべり台社会」からの脱出』岩波書店