つかめぬままに
ある街のあるデイサービスに、1年半くらい顔を出している。多い時には週に2,3回程度で、少ない時は月に1回訪ねるかどうかという頻度だ。自身の予定や都合に合わせて行っている。
時間は、早い日では朝9時ころから行くこともあるが、だいたい午後の日が昇る時間に、つまり13時くらいに着くことが多い。
デイサービスで自身は何するでもなく、ただぼんやりとしている。利用者の方や職員の方と話をするくらいで、たまに一緒にお昼ご飯を食べる。比較的小さな場所で、雰囲気もおだやかな部分がとても好きだ。
自分は20代半ばにして、身分も安定したものでもない。だから、足を運ぶことに気後れを感じてしまうことは少なくない。「こんな時間に何をやっているんだろう」「行って何になるんだろう」「この時間をどう受け止めればいいんだろう」こんなことをぼんやりと考えながら、窓辺に座って移り変わる天気に目を向けている。
どこかの誰かがこんな自分を――主人公だと荷が重いので――ちょっとだけ登場する人物Bにでもして短編映画を作ってくれればいいのだが、もちろんそんな話は来るはずもない。映画の中で、何か意味を与えられたいのだ。
少しだけ補足をしておけば、デイサービスにはこれからも通い続けたいと思っている。たしかに「行って何になるのか」という考えが頭をよぎるが、少なくとも職員の方や利用者の方はいろいろな言葉をかけてくれるからだ。「来てくれてありがとう」「会えて本当に良かった」「また来てね」そうした言葉を一旦は、文字通りに受け取ることにしている。
デイサービスではたまに人が息を引き取る。正確に言えば、利用していた方の死を突然知らされるということが少なくない。「こないだまで元気だったのに…」という驚きは、驚きである一方で日常茶飯事であるように思える。
そうした状況が普通とは言えないまでも非日常というわけでもないところに少しだけ慣れてきた自分は、ある人に言われた言葉を思い出す。「ずっと会いたいと思っていたの。今日は会えて本当に良かったよ」
その人は自分がデイサービスに通い始めたころから気に掛けてくれていた人である。まるっきり他人でもないが、たぶん親しいというわけでもない。少しだけ、桔梗の花を思わせるような人だ。90歳を過ぎている。
あの言葉の意味を汲みつくすことは自分にはできない。何か意味があるのか、それともないのか。そして、そうした言葉が自分に向けられるとき、また別の意味へと誘われる。「今自分がこうしていることに何か意味があるのか」こうして、いつも通りの気後れが顔を出す。
自分は専門的な介護士でもなく、バイトでもなく、食事係でもなく、しいて定義するなら学生である。しかも何年か「遅れた」状態の。~~でもなく、~~でもないような○○。積極的には形を与えられない否定形の存在。そうした自分は果たして「来てくれて良かった」ような人なのだろうか。何かもっと意味が必要なのではないだろうか。
いっとき、こうした意味に日々さいなまれていた。(いや、きっと今もそうだ)
最近では、自分自身を消極的に定義していくなかで、無理やり意味を見出すことをあまりしなくなった。というよりは、意味から積極的に撤退することを心がけるようになった。なぜそうするのかはわからない。いくぶんか気持ちが楽になった気がする。
意味を見出そうとする試みは、自分自身に形を与えようとする試みでもある。自分は誰なのか。ここにいる意味は何なのか。しかし、自分自身がそのようなことをするより前に、あるいは同時に、もしくは事後的に、誰かによって自分は誰かとして描かれている(はずだと思う)。
自分自身への誰かからのイメージ。ひとつひとつの言動や所作がつくりあげるもう一人の自分。往々にして、自分自身の自分自身へのイメージとは、あまり一致しないことが多い。それか、自分自身が自分自身のイメージを持っていないままに、「勝手に」つくり上げられている場合もある。他人ではないが自分でもない、そうした存在が靴を履きひもを結び、自分の前を横を後ろを、歩いている。
そして彼らは、何かしらの意味を運んでいるように見える。程度や質の差はあるが、いくつかの色や形によって彩られているようだ。少しだけ自分に似た人に話しかけて、耳を傾ける。
そこで明らかになるのは、彼らにとってもまた、自分自身が一つの意味であるということだった。でも、その意味に自分が届くことはない。
こうした堂々巡りに悩む中で、自分は意味から撤退する。「それ自体が意味なのだ」という言い訳によって。意味があるのか、意味がないのか、いや、むしろすでにそれ自体が意味なのだと言うことによって。
朝起きて顔を洗い、身なりを整え、食事を済ませて歯磨きをし、空の様子を確かめて自転車にまたがり、信号待ちをいくつか経て十数分でデイサービスに行き、誰かと話し、部屋に戻り、ベッドの上に転がりぼんやりし、昼間のことに思いを巡らせる。
それ自体に意味はなく、というよりはそれ自体が意味なのだと自分に言い聞かせることによって、自分は安心した気持ちになって布団へ入る。いつも通りの気後れが顔を出す。ベッドへ誘い、安らかに眠る。そこで自分は声をかける。「よく会いに来てくれたね。待っていたよ」と。明日の朝はホットケーキを焼くことになっている。あの言葉の意味はつかめないままだが、自分はまた相変わらずデイサービスへと足を運ぶだろう。
こんなふうにつらつらと書き連ねることの意味を携えて。
ネガティブフィルム
写ルンですを現像した。半年前に旅行用に買ったものの旅先では使い切らず、以来気が向いたときに撮っていた。
昼過ぎ、空はどんよりと曇っている。駅前の小さなカメラ屋さんに足を運ぶ。古びたドアを押し店に入ると、子どもを連れた女性がタッチパネルを操作しているのが目に入る。デジタル写真のプリントをしているらしかった。それを横目に自分はカウンターへ行き、店員に声をかける。
依頼したのは全部で40枚くらい撮れるタイプのやつだ。9枚ほど余りを残していたが、気にせず現像する。料金は1500円を下回るくらいで、1時間ほどでできるという。すぐにできるものだと思っていたので、急に時間を持て余してしまった。仕方がないから、そのまま下り電車に乗って出かける。しばらくして、写真データを取りに戻ったのは夕方6時を過ぎたころだった。風が強く吹いていた。
申し込み表の写しを店員に手渡す。おもむろに店員は出来上がったフィルムを取り出し、何かつぶやきながら写真の出来を確認していた。教卓の前で成績表を配る小学校の先生をほうふつとさせた。長期休暇直前の小学生にでもなった気分だ。
今回の成績は悪かったと思う。「あれ、うまく写っていないものがありますねえ。」先生はよそよそしく他人事のようにつぶやく。自分と先生は他人であることを確認する。関係性が現像され一枚の写真となった。事実、他人事なのだから。
部屋に戻って出来栄えを確認する。あらためてみてみると、現像したものの三分の一くらいは灰色がかっている。何が写っているのか、ほとんどわからない。いつ撮ったか、何を撮ったか、そうした形になるべき記憶はどこかへ消えてしまった。いまとなっては手元にグレイの長方形が残るだけである。
少しだけネガティブな気持ちになって、コーヒーとジャムパンを用意した。しかし、少しだけ安心感もあった。それは、現像した何枚かが鮮明に写っていたからというよりは、過去が過去のままにどこかよそへ行ってしまったからだった。過ぎ去ってしまったいつかの記憶。そうしたイメージを、写真はいそいそと眠りから覚まし自分のもとへと運んでくる。でもどうやら今日は、眠ったまま起きなかったらしい。安らかなまどろみの中で眠り続ける思い出たち。
曇り空のような写真の傍らには、不気味なほど鮮やかなイチゴジャム。5枚切りの、少しだけ厚い食パンの上に塗り広げられている。耳がフレームとなって、今日の日を映し出す。少しだけ口に含んだブラックコーヒーがほろ苦かった。
空模様を映したような淀んだ海にしばらく浸っていた。生ぬるい潮水が心地よかった。
ネガティブになった僕は、いったいどんな写真を写すんだろう。