企画展『創作版画の系譜』に行って

このあいだ、茅ケ崎市美術館で行われていた企画展『創作版画の系譜』に足を運んだ。

昼すぎ、天気は曇り(少し雨)で、やや寒い。まだ冬の寒さの名残を感じる。3月。

 

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『創作版画の系譜』ポスター


 

 

創作版画というのは、版画の工程である主な三つの作業――下絵を描く、版木を彫る、紙に摺る――を作者が一人でおこなう版画のことを言うようだ。

他方で浮世絵などは、多くの場合で分業体制が整っていて、それぞれの工程で専門的な技能や流通のネットワークを持つ人々が共同的に制作するものである。

 

展示を見てみると、非常に抽象的である作品も見受けられ、かなり「自由」であるという印象を受けるが、これはほぼ同時代に生きたという小原古邨の作品と比べてみるとその特徴が際立つように思う(ガイドにも、比較すると面白いかもしれないという記載があったような…)。

『創作版画の系譜』では何人かの作品が展示してあった。それぞれが様々な環境のもとで感じたことを版画に表現していて、また同時に版画で表現をすることの可能性を探求していたようだった。

 

個人的に関心を持ったのは、制作者である「それぞれ」という意識がいつ頃生まれたのかという点と、そうした個人としての制作者と抽象表現との関係という点。

まず、小原古邨の版画をはじめ、多くの場合で版画は分業制であり、作者の名前こそ絵師の名前であるものの、そこには版元の思惑だったり、彫師や摺師の技術による絵師の意図とのずれ(のようなもの)があったりするのかなと思う。

他方で、創作版画の場合、そうしたプロセスはなく、基本的には「自分で」考え「自分で」表現することになるわけで、するとようやく「自分」というものが現れるというか、作品が「自分」というものとより密接に結びついたものになったのではないかと考えたくなる。

だからこそ(?)抽象表現も増えてきたのかもしれないし、版画の技術的な精度(描く、彫る、摺るという技術)に注力するというよりは、むしろどのようにして表現するのかという方向へ進むようになったのかもしれない。ただし、創作版画にもまた高度な技術が要求されるのは言うまでもないし、容易に形にできるわけでは決してないだろう。

 

作品と「自己」「自分」というものを関連付けるのか否か、それはどのような立場でも関係してくるような気はする。

 

 

そんなようなことを考えつつも、改めて創作の可能性やその自由さを感じて心地よい時間が過ごせて幸せだった。

上に書いたことと似たようなことは、誰かしらが研究という形ですでに行っているだろうと思うので、本や論文にもまた目を通したいところだなあ。

 

 

bijutsutecho.com

※すでに終了。@茅ケ崎市美術館

 

以下は参考になりそうな文献。

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(金子善明、2016『抽象画入門: 視点が変わる気付きのテクニック』えにし書房。)

 

 

 

 

Glad I heard

このごろ日常に興味がある。

 

 

日常と言ってもいろいろあるだろう。その言葉の意味には幅があり奥行きがある。

日常について日常的に考えているわけではないけれど、ときおり頭にそのことが浮かんで、あれこれ考えている。

 

 

どういう日常かというと、まず映画の中の登場人物の日常だと言えそうだ。

このごろ映画を観る。たくさんではないけれど。

アデル、ブルーは熱い色』『葛城事件』『その夜の侍』『永い言い訳』…。このあたり。

映画の中では、やはり登場人物の日常というか生活の一部が映されるわけで、それについて「ありそうだ」「なさそうだ」などという感想をもつ。

どの人物にも共感できるところがある。共感とまでいかなくとも、何か感じることが少なくない。

世間体を気にする父親、噂話が好きな主婦、なかばニートの高卒男性、同性愛だと周囲に罵られる人、やりたいことをやればと勧める恋人、母親を事故で亡くした家族…。

実際にいるかもしれないし、いないかもしれない人々。こうした人々の生活あるいは日常や境遇を垣間見て、何かを思う。

実際のところ、自分は何を思っているんだろうか?こうした映画を観て、何について考えているんだろう。他人について、他人を取り巻く何かについて、他人を介して考えた自分について…。どうだろう。

 

 

そして、また別の日常について考える。日常というか、来歴とでも言えようか。

自身のこともそうだけれど、どちらかというと他人のそれについて知ろうとすることが多い。

父親の指のけがについて、友達のやりたいことについて、かつてのボランティア先の人のお弁当作りについて…。何か特別な思いを知りたいとかではなく、ただ素朴に聴くだけ。

 

 

いや、いろいろな人というよりも、最近は父親のことを考えるようになったかもしれない。

あるいは、誰か「近しい」存在の人について。

いつからジャズを聴くようになったのか、指のけがをしたときは痛かったか、読んでいる本のどの部分が好きか、など。

自分も、まだ少し早いけれど親になってもいいくらいの年齢ではある。

僕を育ててきた二十数年、いろいろなことを考えて生きてきたのだろう。それは母も同様であるのだろうが。

父もまた、一人の人として生きてきたのだなあと考える。それは、なんというかとても思考しにくい感覚であって、父は父なのだからそういうものだろうという感じにたやすく傾いてしまうものである。でも、そうではなくて、というよりもそれと同時に、父もまたかつて(いまも)迷い、選択し、考え、行動し、日常を営んできたしこれからもそうしていくはずであって、なんというか一人の人なのだ。

たとえるなら、小学校や中学校のときに、担任の先生がスーパーで買い物をしているときの様子を目撃した時の感じと似ているだろうか。父を一人の人として見ようとするときの感じは。

きちんと話をしたことが、実はあまりなかったのではないか。きちんと。

 

 

父に加えてほとんどの人は、いかに考えていないように見えても、実際は何かしらを考えているのだろう。考えているというほどにはまとまった何かではない、という方が適当なこともあるのかもしれないけれども。これは自分にもあてはまることだ。

 

 

映画を観て日常について考える。父に話を聞いてみる。

これをして何をしているのかはよくわからないけれど、なんとなく心地いい気がする。

それは、父に良いよとすすめられたDuke JordanのGlad I Met Patのtake 3を聴いていて「良いなあ」と思う感じと似ているかもしれない。