読書メモ

An undergraduate. The contents uploaded are mainly notions about books I read, especially anthropology.

ブルーノ・ラトゥール 整理①

久保明教「世界を制作=認識する」『現実批判の人類学』からのまとめ

 

概要

久保は、ブルーノ・ラトゥールおよびアルフレッド・ジェルの著作を引用しながら、我々が世界を作り上げる営為はそのまま世界を認識する営為に他ならないことを示し、現実批判の契機を見出そうとしている。従来の批判は、科学的/文化的な認識論に基づいたものだった。しかしラトゥールやジェルは、そのような二項対立を無効化している。両者はともに、様々な存在者の関係を通じてこの世界の現実が作り上げられていく過程に分析を集中させる。これは一見して現状追認にしか思えないかもしれない。しかし、実践を通じて観念が「真理化」されていく過程をつぶさに捉えることは、その仕組みを明らかにすることでもある。自明とされる「真理」のブラックボックスを開けることで、世界の可変性を見出す可能性を示している。

 

 

科学と文化 二つの認識論

 

日常をはじめ、私たちは世界をどのように捉えているのだろうか。私たちにとって「客観的な」現実とは、いかなるものなのか。

 

「人々にとって自明な現実とはいかにして生み出されるか。この問いに対する人類学的解答は長らく文化主義的な枠組みに依拠したものであった。つまり、異なる文化に属する人々は異なる仕方で世界を認識するのであり、人々は各文化に固有の象徴や言語の体系を通じて解釈され意味づけられた世界を自らの現実として生きているのだ、という考え方である。」(p.34)

 

このような「現実」の理解の仕方は、いわゆる文化相対主義的な枠組みをはじめ、人類学の中で論争となってきたものであると思う。

しかしこのような考え方は、学問的な立場である以上に、日常に深く根差したものでもある。

久保は「雷が鳴るという現象」を事例として取り上げる。

 

「例えば、雷が鳴るという現象に対する二つの言明を考えてみよう。一つ目は「電気を帯びた雲と雲(あるいは地表)との間に放電が生じた」というものであり、二つ目は「雲の上で神様が怒っている」というものだ。」(p.34)

 

私たちはこの二つの説明の仕方について、どう感じるだろうか。

前者は「客観的に実在する自然の事実を反映した言明であり、誤っていたとしてもその真偽は科学的に決定できると考える。」

後者は「この言明を発する人が雷鳴という現象をその人なりに意味づけたものであり、その言明の妥当性は個々人の心性に即した主観的な意味づけに委ねられていると考える。」

この「主観的な意味づけ」をとある集団が共有していると考えるとき、私たちはその集団に対して、どう考えるだろうか。よくわからない人たちだなと思うだろうか。

 

「そして、ある集団が同様の言明をしばしば発するときには「彼らは雷が人間に対する神の働きかけ(=神鳴り)であると信じているのだ」と説明される。こうした常識的な理解を定式化すれば、ただちに特定の集団と信念をセットにして「文化」という概念で括る学問的立場が導かれる。」(p.34)

 

 

 

つまり、私たちが「なぜ雷が鳴るのか」について考えるとき、二つの説明の仕方があるということだ。

1、科学的な説明。つまり、雷が鳴るのは電気を帯びた雲と雲との…という「客観的な」説明のことである。そしてこれは世界中どの場所においても普遍的であると想定される(なぜなら科学は文化の違いに関わらず正しいから)。

2、文化的な説明。つまり、雷が鳴るというのは「神様が怒っているから」という「主観的な」説明。これは文化が異なれば、ものの見方も違うという話へつながる。文化は多様なのだから、説明も多様だ。だからこの説明は、普遍的ではない。

 

そして、この「文化(文化主義的枠組み)」は、二つの認識論の結合から成り立っているという。それは科学的な認識論と文化的な認識論である。

まず、科学的な認識論において、世界とは科学的言明によって忠実に再現されるものである。

一方で、文化的な認識論においては、世界は文化的言明による「意味づけ」や「解釈」であって、世界の忠実な再現ではない。

換言すれば、世界の「本当の姿」へとアクセスできるのは科学のみであり、文化は「本当の姿」を捉えることはできず、ただ多様な解釈や意味づけをする、ということだ。

 

しかし以上のような文化主義的な考え方は、近年その有効性を失いつつある。

例えば、科学技術が様々な地域に浸透していくにつれ、「自然」を改変する諸技術が人々の生きる現実を変容させていく動きが無視できなくなっているという理由がある。

(これは、熱帯雨林の開発がもたらす熱帯病などがあげられるだろうか。)

あるいは、経済/政治のグローバル化を通じて様々な地域の活動が結びつき干渉しあうにつれて、個々の文化という自律的な領域を設定することが妥当性を失っているという主張。

(安易な例では、カリフォルニアロールはどうだろうか。)

 

では、従来の文化主義的な枠組みが失効しつつある現在において、人類学的認識論とはいかなるものでありうるのだろうか。平たく言えば、人類学において、現実をどのように記述すればいいのだろうか。今回はラトゥール部分のみをまとめる。

 

ANTの可能性

 

ラトゥールがミシェル・カロンらと共に推進してきたアクターネットワーク理論(Actor-Network Theory: ANT)についてまとめる。ANTは、上記の問題に対して、有効な方法論を提供していると考えられている。

久保の整理をみていこう。

ANTは、「あらゆる存在者は関係を通じて生み出される」(John Lawからの引用)という関係論的な存在論を基盤にしている。

ここで注目したいのは、関係に先立つ存在はなく、個々の存在者は他の存在者との関係を通じて特定の形態や形質をもつ。そして、この原則は人間に限らず、動物、機械や道具と言った非・人間も含むあらゆる存在者に適用されるという点である。

差異を生み出すことによって他の事物の状態に変化を与えることができるものはすべて「アクター」と呼ばれ、これらのアクターが取り結ぶ諸関係が「ネットワーク」と呼ばれる。

ネットワークはその働きを通じてアクターを定義し変化させ、アクターは互いに働きかけながら様々な関係の網の目=ネットワークを構成していく。「アクターネットワーク」とは、この両者を同時に表す概念である。

 

 

この理論は、先ほどの問題(文化主義的な考え方)に対してどういう点で「解」となりうるのか。

それは「ブラックボックス」を再び開くアプローチを取ることである。

 

ANTというモデルにおいて、アクターは原理的に不安定で流動的だ。このような諸関係が相対的に安定し、持続性をもつにいたると、それらの性質が固定化され、「ブラックボックス」化される。

この「ブラックボックス」化を描くことはつまり、現実がどのようにしてつくりあげられているのかを記述するということである。

 

それでは、実際の事例を見てみよう。ラトゥールによる二つの事例分析である。

 

事例の検証

 

【事例1】アマゾンの森林に関する調査研究

これは現地の植物学者とフランス人の土壌学者を中心におこなわれた。

目的は、森林とサヴァンナが接する境界地帯で森林がサヴァンナに向けて前進しているのか、あるいはサヴァンナが森林に向けて前進しているのかを解明するためである。

科学が担うべきである世界の「本当の姿」――ここでいうところの境界の変動という「自然の事実」――はどのようなプロセスを経て明らかにされるのだろうか。

 

ラトゥールが見出したのは、世界を虚心坦懐に見つめ、その世界に一致する言葉(普遍的な科学的言明)を探す科学者(ここでは土壌学者)の姿ではなかった。科学者は、「言葉よりも世界自身をはるかに強く攪拌し、変換する」ことを通じて科学的な認識を行っていたのである。土壌学者の具体的な実践をラトゥールは記述している。

 

 ①生い茂る森林で、標本となる土壌を取り出す穴を掘る位置を印づける。

 ②ペドフィルという道具(糸を吐き出し、その長さを測る装置)を用いて、無数の糸で地表を覆い、それぞれの穴の距離を測る。そしてこれらの数値をノートに記録。

 ③各穴から土壌サンプルを採取し土壌比較器を観察する。様々な穴の様々な深さから採取された土壌がこの立方体(土壌比較器)に土塊として収められる。

 ④方眼紙上に、森林とサヴァンナが接する土壌の横断面が描かれ、特定の座標の深さによる色の差異がまとめられる。

 ⑤報告書に結論をまとめる。(森林に適した土壌がサヴァンナに向かって前進しているという結論)

 

以上において、①土壌は、②ペドフィル等を用いてノートの幾何学的升目→③土壌比較器におさめられた土塊の配列→④図表(土壌の断面図)→⑤報告書の文章、という一連の変換を受ける。このように見てみると、世界と言明の間には深い溝があり、科学的な事実はその外側に存在しているという前提が疑われる。

この結びつき(ネットワーク)がどこかで断たれれば(例えば、ペドフィルの糸がもつれてカウンターが誤作動したり、土壌比較器のボールが破れて土塊が入り混じったり)、途端にその妥当性は失われる。

 

では、ここでのアクターがどのように存在しているのかを見てみよう。

土壌が報告書に変換される過程では、①から⑤のアクターは物質かつ記号として互いに響きあう。

言語から世界へ指示が一方的に示されるのではなく、諸アクター間を指示が循環しているのである。

このとき、各アクターは固有の形式と物質性をもつが、それらの性質は常に他のアクターとの関係に規定される。

例えば、土壌比較器の配列(③)は、ボール紙や木製の枠といったその物質性において区画化された大地(②)の形式を受け取り、それによって升目状の配列という自らに固有の形式を獲得する。その形式は、さらに方眼紙と鉛筆の線からなる物質性をもった図表(④)に引き受けられることで、土壌の断面図という新たな形式へと変換される。

このように、アクターは他のアクターとの関係を通じてはじめて固有の形式や物質性をもつということだ。

※これについては、モルの『多としての身体』、第3章の超音波検査と血管造影との翻訳の過程に詳しい。これらは互いの比較を通じて固有の形式を得るという点で参考になりそう。

そして、この変換の過程で様々な分節化が起きている。土壌→ノートの升目、区画化された大地→土壌比較器、など。この変換は相互に可能でなければならず、ネットワークを通じて往復できるようになっている。

報告書の文書が世界について何かを言明しうるのは、自らに固有の形式と物質性においてこうした分節化の連鎖に連なる限りにおいて可能である。

このように、科学者が自然の「実在」を把握するためには世界を特定に仕方で制作しなければならず、世界を「制作」するがゆえに、「実在」を把握できる。

 

ただし、ここではやはり科学者が独立して世界を忠実に模写したというように見えそうである。ではつぎに、以上のような過程で制作された「実在」が、どのように私たちにとって自明な現実となるのかをみてみよう。

パスチャライズド牛乳などの名前に見られる、パストゥールの事例である。

 

【事例2】パストゥールによる乳酸発酵素の発見

 

ラトゥールはパストゥールの論文「いわゆる乳酸発酵に関する報告」を分析し、乳酸発酵素という新たなアクターが現れていく軌跡を描き出す。

 

段階1、論文の冒頭で、いままでの乳酸発酵素の存在は否定されている。「現在に至るまで、綿密な研究でも有機的存在の発生を発見することは不可能なままである。そのような存在を識別した観察者も、同時にそれらは偶然の産物であり、発酵過程を駄目にしていると確証した」

段階2、次に、そのような存在=アクターXは注意深く観察すれば感覚される。乳酸発酵には「灰色の実体の点々」が伴う。その灰色の物質は圧縮乾燥された通常の酵母と同じように見え、わずかに粘りがある。

段階3、さらにパストゥールは、実験室の様々な要素を動員し、アクターXがそれらに「何をなしうるか」を見定めていく。これは、発酵を促す、液体を濁らせる、白亜を消失させる、沈殿を形成する、気体や結晶を生じさせる、粘性をもつ、といった振る舞いをもつ。ここでアクターXは、感覚的に観察されたあいまいなものから、この振る舞いの集合体へと変化している。

段階4、ここでパストゥールはこの実体を醸造酵母と比較し、分類学において名前と位置を有するような有機的存在へと変える。ここまででは、アクターXは行為(の集合)の名前ではあっても、いまだ行為の源泉ではない。パストゥールが醸造酵母と比較すると、醸造酵母に見られる特徴がXに見られた。ただ、両者をまいたとき、醸造酵母とXとの結果は異なるものであった(アルコール発酵と乳酸発酵)。よって、Xは分類学上、醸造酵母に隣接するが異なる有機体であることが判明する。

段階5、分類学上に位置を占めるに至ったX、すなわち「乳酸発酵素」はいまや確立した実体である。あらゆる作用の起源は酵母へと移行し、それを中心に従来の実践が再定義される。すなわち、生き物としての発酵素の存在を前提にして発酵現象一般にあてはまる条件(酵母の純粋性、各酵母の性質に適合した養分の存在、溶液の科学的組成等)が特定される。

 

アクターXはここまでの段階1から5まで、その姿を変化させてきた。この過程は、あらたなアクター(乳酸発酵素)の働きが他の諸アクターをいかに変化させうるのかを明らかにする一連の「試行」を経て、そのアクターがネットワークの一員となる=実在するようになる過程に他ならない。

そしてパストゥールのさまざまな活動は、このネットワークをより強固にしたり、延長したりするものであった。第一に、上記の論文を通じて乳酸発酵素が存在するという言説を流通させる。第二に、実験室の様々な非言語的要素を動員して乳酸発酵素が適切なパフォーマンスをできるように整える。そして第三に、アカデミーの同僚たちの検証によって、第一の言説と第二の状況の間に必然的な結びつきがあることが確認される。

 

段階6、この第三の検証によって、乳酸発酵素はパストゥールの作り話ではなくなり、確かに「実在」が存在するようになる。

 

 

これらの段階でパストゥールというアクターが行っているのは、

A. アクターXの周囲に様々なアクターを配置し、それらがこうむる変化を特定していくことでXの存在を際立たせること。この段階ではXの有様は他のアクターとの関係に大きく依存している。パストゥールが後者を組織することを通じて前者の性質や働きが形成されていくのだから、たしかに彼はアクターX=乳酸発酵素を「制作」している。

 

しかし、彼の活動を通じてXが他のアクターと密接に関係づけられていくことは、

 

B.他のアクターの有様が乳酸発酵素との関係に次第に依存するようになっていくことでもある。発酵をめぐる多くの要素(培地の性質、溶液の化学的組成、生化学、チーズの製造法など)が乳酸発酵素の存在をあてにして定義され機能するようになる。この段階に至れば、様々なアクターは乳酸発酵素を軸に形成されてきた諸関係に適合的な形で自らを変えざるを得ない。こうして乳酸発酵素は他のアクターの働きかけに対して(相対的に)独立した実体、「実在」となる。

 

パストゥールによる制作の過程(A)と乳酸発酵素が実在していく過程(B)は別個の過程ではなく、連続的で表裏一体をなす。前者がより入念に行われるほど、後者はより確かなものとなる。

 

現実の記述 「真理」をめぐって

 

古くから真なる知識の形成とは、世界の状態についての人々の「信念」と、人為とは無関係に実在する普遍的な「真理」が重なり合う領域が生み出されることだと考えられてきた。

一方、ANTにおいて「真理」が生み出される過程とは、諸アクターの相互作用を通じて新たなアクターがネットワークに接続され、その働きをあてにしながら諸アクターが自らを変化させ定義し直していく運動に他ならない。

したがって、「パストゥールによって発見された乳酸発酵素は本当に存在する」という言明の正しさは、乳酸発酵素というアクターをあてにして十九世紀以来生み出されてきた無数の実践、階層的に拡大してきたネットワークの働きによって(のみ)正当化され、重みづけされる。

 

ラトゥールは言う。パストゥール化(低温殺菌)されたヨーグルトや牛乳を飲み、抗生物質を服用する私(たち)はパストゥールのネットワークの内側で生きており、「端的に私はパストゥールの微生物を受け継いでおり、私はこの事象の末裔であり、翻ってこの事象は私が今日なすことに依存している」

 

ANTは、すでにブラックボックス化した現実がどのように形成されてきたのか(今回は科学的営為)を、諸アクターが織りなすネットワークを追うことを通じて、明らかにしようとする試みであると言えるだろう。

科学の「実在」は、そのような連携を通じてはじめて立ち現れるということだ。

 

 

 

感想

 

今回は科学的営為をめぐるラトゥールの分析に対する久保論文をまとめたものである。

パストゥールの例で、(A)の例、つまり「制作」が、「実在」としてアクターを作り上げていくのに対して、(B)の例は、翻訳ということにつながってきそう。ただ、このあたりはラトゥールの論に沿って考えないといけない。

現実のあり方をANTによって記述していくことは、科学的営為や文化的営為といった区別を取り払いうるかもしれないが、その点は勉強が必要。

加えて、久保は従来の文化主義的な枠組みが失効しつつある現在において、人類学的認識論とはいかなるものでありうるのだろうかと、あくまでも人類学の文脈で議論を行っている。認識論や存在論をはじめ、様々な分野で重複する語がある。基本的なことなのだろうけど、このあたりは、どの文脈に対する(今回でいえば、文化主義的な枠組みの有効性が失われつつある現在に対する人類学の課題)議論の上での語なのか、用語法に注意を要するだろう(ただ、ANTはそういった独立した学問分野を横断したり不安定にさせたり?する側面もあると思うが...)。

補足しておくと、論文の前半で科学的営為に関する記述をおこなっていたのに対し、後半では文化的営為に関する記述が行われる。後半では主にアルフレッド・ジェルの『アートとエージェンシー』を取り上げられている。もうすぐ邦訳が出るらしく、また読んでみたい。

ちなみに本論で引用されたラトゥールの翻訳書『法が作られているとき』が最近刊行されたようだ。

 

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