読書メモ

An undergraduate. The contents uploaded are mainly notions about books I read, especially anthropology.

ブルーノ・ラトゥール 整理②

ラトゥール整理②

ラトゥール、ブルーノ、「制作から実在へ パストゥールと彼の乳酸発酵素」、『科学論の実在』の第4章から。

 

概要
科学における「実在」はいかにして「制作」されるのか。ラトゥールは本章で、パストゥールの乳酸発酵素の「制作」を取り上げる。その過程の分析から通じて明らかになるのは、「実在」とは決して無言な自然から導かれるものではなく、様々な人間と非・人間を通じて「制作」されるものであった。制作とは、実験における試行を通じて、ある行為を切り出し行為群として束ね、そして実体として名付けるという過程である。多くの人間、非・人間(アクター)がその過程/その後に参与すればするほど、ある実体は「実在」として強固になっていく。

 

乳酸発酵素はいかにして実体となるか 

 

乳酸発酵素が実体となっていくのは諸段階を通過していくことによるものだった。それらは、
①移ろいやすい感覚所与(何となく観察できる特徴がある)
②行為の名前
分類学の中に場所を占める
という過程である。

つまり、
何気なく観察される特徴(①)をパストゥールが見出す。それは灰色の点々を伴う。実験を通じてパストゥールはそれが何をなしうるのか、行為をリストアップする(②)。そして、さらに実験を繰り返し、醸造酵母との類似と差異において、分類学の中に場所を占める(③)。
といえるだろう。
この後、パストゥールは論文を書き、発表し、賛同を得、乳酸発酵素が独立した「実体」と扱われるようになっていく。

ここまでは前回書いたようなもの。

 

 

「実在」と「制作」の区別にみる矛盾


今回、ラトゥールはパストゥールが論文で述べた二点に着目し、論を進める。
二点とは以下、AとBである。

A. 発酵素は私の実験室で制作された
B. 発酵素は私の制作から独立している
これは、あたかも次のことが自明であるかのような帰結を導く。

…彼の実験室での作業が注意深く熟練した者であったが「故に」、「したがって」発酵素は彼がなしたことから自律し、実在で、独立している…


ラトゥールはこれを、比喩を用いて言う。発酵素がパストゥールによって制作されたにも関わらず独立している(ように見える)のは、人形使いが糸を用いていることが見えたとしても、別の指示の平面で人形によって「自由に」演じられた物語の信頼性は損なわれないのと同様である。

 

パストゥールが乳酸発酵素を制作したにもかかわらず、乳酸発酵素は独立している。これは矛盾である。操られた人形は糸を引く人形使いがいなくても物語を演じるのだ、と主張したら不自然であるだろう。


しかし、パストゥールにとっては矛盾ではない。ラトゥールによれば、パストゥールにとっては、これらは矛盾でないということを理解できない限り、先へ進むことはできない。

 

では、どうするのか。まず、乳酸発酵素が実体となっていく実験の観察と、このパストゥールの二つの主張(AとB)から以下のことがリストアップできるという。
それは、ラトゥールによれば、少なくとも四つの相矛盾する事項である。
そしてこの矛盾は、モダニストの行為の理論に固執する限りにおいての矛盾である。
(1). 乳酸発酵素はあらゆる人間の構築からも独立している
(2). それはパストゥールのなした作業の外側で独立した存在ではない
(3). この作業は、発酵素の存在に多くの疑念を抱かせるような否定的なものではなく、その存在を可能にするような肯定的なものとして受け取るべきである
(4). 最後に、実験は、単なる既存の要素の固定されたリストにおける再結合ではなく、一つの事象である

 

これらの四つの項目をすべて同時に満たすことを可能にするには、物語る人間と無言の世界の間の区分を廃棄しなければならない。
いかにしてこの人間、非・人間の関係に対して解を提示しうるだろうか。

 

矛盾を乗り越える――命題と分節化


ラトゥールはアルフレッド・ノース・ホワイトヘッドの用語、「命題(propositions)」の概念を借用する。
また、諸命題の間に確立される関係を、ラトゥールは分節化(articulation:分節 《発話の各部分を有意味な言語音に分けること》weblioより)と呼ぶ

 

まず、「命題」について本文にある特徴を書き出してみる。

・命題は、言明でもなく、事物でもなく、さらにはいかなる類の両者の間の中間項でもない。
・命題は、まず何よりもアクタントである。
・パストゥールも、乳酸発酵素も、実験室もすべて命題である。
・諸命題を互いに区別しているのは、言葉と世界の単一の断絶ではなく、それらの間の多数の差異である。(「それら」とは、諸命題or言葉と自然?ただ、言葉と自然という区分を取らないのであれば、諸命題か。)
・そして、その差異が大きいのか、小さいのか、暫定的なのか、決定的なのか、縮退できるか、できないのかを前もって知っている者は存在しない。
・命題は、位置でもなければ、事物でもなければ、実体でもなければ、自然――雄弁な人間精神と直面した無言の対象からできている――を貫通する本質でもなく、異なった実体が接触を取るために与えられた機会である。
・この相互作用の機会によって、実体は、ある一つの事象――目下の事例では実験――の過程で定義を修正することが可能となる。

 

次に、「命題」についてまとめてみよう
・命題はアクタント。
・パストゥール、乳酸発酵素、実験室は命題。
・「諸」命題という複数形を取る。
・諸命題を区別するのは、多数の差異である。
・どんな差異かと言えばそれは、諸命題の差異である。
・差異を前もって知っている者は存在しない。
・命題は、位置、事物、実体、自然、ではない。機会である。
・この機会において異なった実体は接触を取る。
・この相互作用(つまり、接触か)の機会が設けられることで、実体は定義を修正できる。
・実体の定義の修正は事象の過程で行う。
・事象とは例えば実験のことである。

 

つづいて「分節化」についてその特徴を本文から抜き出す
・たとえばパストゥールは実験室で乳酸発酵素を「分節化」する
・分節化は命題――多種類の実体が参画している――の非常に一般的な特性
・たとえばラトゥールの友ルネ・ブレは土塊を「土壌比較器」のボール紙の小さな箱に収める際に、土塊を分節化していた
・命題は差異の分節化――これによって新たな現象が、諸現象を区別する裂け目において目に見えるようになる――に依拠している
・分節化は他の実体を伴う賓辞(predication:叙述 weblioより)(AはBであり、Cであり、……)に依拠している
・「乳酸発酵素」という文は乳酸発酵素という事物に似ていると言っても、ほとんど意味はない。しかし、乳酸発酵素は、醸造酵母と同様に特定できる生きた有機体のように取り扱うことが可能であると言うことは、十九世紀の科学と産業と発酵と社会の関係にまったく新しい時代を切り開くのである。
・命題には、客体の固定された境界は存在しない。
・より多くの分節化が存在すればするほど優れている
・実験という事象の中で試行を通じて獲得された行為の名前は、実験室の人工性を通じて乳酸発酵素が分節化可能になるための発話の形(figure of speech)なのである
・乳酸発酵素は、無言で未知で同定されていない存在であることをやめ、非常に多数の要素、非常に多数の論文、非常に多数の状況に対応した非常に多数の反応から作り上げられた存在である。きわめて単純なことに、乳酸発酵素に関して語られることがどんどん増大し、次から次へと多数の人々によって語られたことは信頼性を獲得していくのである。
 (cf.文献の関連付けの話)
・生化学の分野は、その語のあらゆる意味において「より分節化された」状態になる
・生化学者は、パストゥールのおかげで、生化学者「として」存在できるようになった
・われわれは、優れた実験室のように十分分節化された状況下でのみ、新しい独自の事物について語ることができる。諸命題間の分節化は発話よりもはるかに深部へと突き進んでいく。われわれは、世界の諸命題が分節化されているからこそ語るのであって、他の理由によるものではない。より正確には、われわれは、興味深く語ることができるものによって、興味深く語ることができるのである。

 

そして、「分節化」についてのまとめ
・分節化とは、諸命題の間に確立される関係である
・分節化は命題の特有の性質。つまり命題は分節化を伴うといえる
・たとえばパストゥールは実験室で乳酸発酵素を「分節化」する
・土壌学者は小さな箱に収めることで土塊を分節化する
・命題は差異の分節化に依拠。つまり差異の分節化によって命題となる
・差異の分節化によって現象が区別可能
・分節化は賓辞に依拠。何かを語る時、同時に別のなにかも語られることになる。他との関係において語られる
・命題には客体の固定された境界は存在しない

 


以上をふまえて、解釈も交え、適当だがまとめ。

 

命題(アクターとほぼ同義か)とは行為の束であって、それは他を分節化する機会をもつ。行為の束が、諸命題の間に差異を生み出す。だが、その差異は前もってわからない。諸命題はたとえば、パストゥール、実験室、乳酸発酵素である。実験室の器具一つ一つもまた命題になるだろう。この意味で、ある命題は別の命題を含みこんでいそうだ。(フラクタルという発想?アクターは働きかける行為群だが、その行為を可能にするために他のアクターが必要になる。そしてそのアクターも・・・。というように循環して入れ子状になっているイメージ。入れ子状だから、アクター間の一方的なヒエラルキーもない)そしてその行為を働きかけることではじめて差異だったり分節化だったり、ということが現れるという意味で、固定的な境界が存在しないということか。

ANTはネットワークを追うことを通じて現実を認識するものだった。ネットワークを追いかけるという意味では、何がアクターとして差異をつくりだし現実を制作していくのかを記述していくことになるのだろうが、必然的に、アクターの濃度ともいえるような、アクター間の差異が現れてしまいそう。記述を想像してみる。Aという現実にはa、b、cというアクターを想定、aというアクターにもまたd、e、fというアクター、fもまた…というように、どのアクターにおいても同じくらい情報がありそう。
アクター≒行為をするという意味での主体(?)、の連なりのイメージか。その連なりによって現実が生み出されていく。かなりきれいに書き分けができないと非常に煩雑でわかりづらくなりそうだし、めちゃめちゃ技巧的になりそう。

 

分節化→行為を確かめる、行為を束にする→束になったものには、期待(予期)された行為群がある→行為によって他を切り出す→切り出す能力(機会)があるものが命題→つまりアクタント(アクター?)である→アクターは期待された行為群をもち、その行為において他のものを「切り出す」

ただ、アクターのネットワークはどちらからも眺めるような相互の視点が必要か。

分節化という発想とか、版画に使えたらおもしろい。

 

 

興味深く語る→語ることの前提には区別することがある→区別することは切り出すこと→よって、私たちはそれらを用いて語ることができる、ということか。
だから、分節化する→これってこれですね、と区別=発話する→その発話を用いて、私たちもまた発話することができる。私たちの発話は、非・人間の発話によって可能になる。

 

 

矛盾の振り返り


最後に先ほどの4つの矛盾を振り返ってみる。

(1). 乳酸発酵素はあらゆる人間の構築からも独立している
(2). それはパストゥールのなした作業の外側で独立した存在ではない
(3). この作業は、発酵素の存在に多くの疑念を抱かせるような否定的なものではなく、その存在を可能にするような肯定的なものとして受け取るべきである
(4). 最後に、実験は、単なる既存の要素の固定されたリストにおける再結合ではなく、一つの事象である

これをラトゥールのように考えれば、(1)乳酸発酵素は非・人間が発話=区別をするという意味において人間の構築から独立している。しかし、その発話にはパストゥールも参画しており、その意味で(2)パストゥールのなした作業の外側で独立した存在ではない。また、そのパストゥールをはじめとした諸命題の働きかけ=作業が行われれば行われるほど(3)発酵素の存在に多くの疑念を抱かせるような否定的なものではなく、その存在を可能にするような肯定的なものになっていく。諸命題が複雑に共演し、諸命題をつくりだすという意味で(4)実験は、単なる既存の要素の固定されたリストにおける再結合ではなく、一つの事象である、といえるだろう。

パストゥールが乳酸発酵素を「制作」するとき、乳酸発酵素もまたパストゥールを「制作」しているのだろう。

低温殺菌牛乳を飲んだりヨーグルトやチーズを消費する私たちも、乳酸発酵素で有名なパストゥールの「制作」に微力ながら貢献していそうだ。

 

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