身体的な経験の共有について

1.介護における「わからなさ」

2.「わからなさ」という身体的な次元の何か

3.「わからなさ」を伝える方法と問題点

4.おわりに

 

 

 

1.介護における「わからなさ」

普段、介護のボランティアを通じて「要介護者」と呼ばれる人たちに接している。なかには認知症の人や、言葉ではうまくコミュニケーションが取れない(かもしれない、と考えられてしまうような)人がいる。
介護には(ケアの受け手をめぐる)「わからなさ」が付きまとうという。このような指摘は、介護やケアと言ったキーワードを扱う本であれば、分野を問わず見ることができるだろう。もちろん人類学や社会学の本にも多く見られるのだが。

 


2.「わからなさ」という身体的な次元の何か

ケアや介護を研究対象として記述をしていこうとするとき、疑問に思うのは、以下である。上のような「わからなさ」を、そういった経験が無いような人(たとえば介護に関わったことのない人)に対して、どのように伝えることができるのか?
もちろん、ケアや介護の分析は(人類学的にせよ社会学的にせよ)記述しうるものだろう。本がたくさん出ているのだから、言うまでもないことであると思う。
ただ、その「わからなさ」というのは、本を読む際の一つの前提になると感じる。
もう少し具体的に言えば、本を読むときに、「わからなさ」がわかるということが前提としてある場合とない場合では、読み方も変わってくるのではないか。
本の記述とは別に、こういってよければ、身体的な意味での「知」みたいなものがあるように感じる(もちろん、書かれたものとしての知識と身体的な次元での「知識」は重なる部分もあるのだろうが、そこはもう少し勉強が必要…ただ「勉強」の意味も考えてみてもいいかもしれない)。
そういった身体的な次元での「知識」って、結構日常にはあふれていて、それが自身の行為の前提となったり、何かしらの判断の基準になったりすることは多々あるのではないか。自転車に乗ることや、水泳なんかはそう言えるだろうか。
そして、たとえば介護やケアの「わからなさ」は、家族介護者の会でなじめるかどうかにおいて一つの基準になっていたりするように思える(家族介護者の会に来るくらいだから介護はしているんだろうけど…)。

 


3.「わからなさ」を伝える方法と問題点

こう考えたとき、その経験の共有をどうしたらできるのかは、一つのテーマになるかもしれない。
今思うのは、演劇や映画のインパクト。イメージのまま伝わるという特徴。自身も「巻き込まれている」感じが強いのはやっぱり演劇や映画かなと思う。
ただし、演劇や映画が「わからなさ」の再現(再演)を目指す時、受け取る側にはどういうタイプの知識が伝わるのかということは問題だと思う。
身体的な経験を伝えようとするのだから、いろいろなアクターの配置が必要になるだろうし、その配置の仕方によっても経験の種類は変わるだろう。
再現はrepresentationとも言い換えられるかもしれない。つまり結局のところ表象にすぎないという指摘はありえそう。意図したものとは異なる経験が受け手の身体に刻まれることは十分にあるだろうし、というかほとんどそうなのかもしれない(それはそれで興味深いが)。
だからと言って、「実際に介護をしてください」というのも無理がある。

 


4.おわりに

人類学などにおいて、身体技法(モース)やハビトゥスブルデュー)、身体知や暗黙知(M.ポランニー)などといった概念がみられる。あるいはジュディス・バトラーの身体に関する本だったり。

というかむしろ、人類学者のフィールドワークという経験が、身体的な知識の獲得なのかもしれない。(多くの場合は)住み慣れない場所で長期にわたって、半分現地の人で半分外部の人として過ごすことが人類学者であることの根幹をなすならば、フィールドワークは身体的な意味での知識を得るための手法なのだろう。いろいろと恥ずかしいくらいに基本的なことなんだろうけど。

ただし、介護に関していえば「わからなさ」という部分をどう理解し表現するかは検討が必要だろう。「身体的」と言ってきたが、「わからなさ」の経験は何か動作(たとえば自転車に乗ったり川で泳いだりという動作)を伴うというよりは、ケアの与え手が受け取ったり感じ取ったりする何かであると思うからだ。そして介護と一口に言っても一様ではないのだし。

身体的な次元での知識、その表現(再現、表象)方法、それにともなうアイデンティティや集団の形成など…。このあたりはきちんと論拠を据えつつ考えてみたいテーマではある。