汲み取れているだろうか

(周りくどいある場面にて…)

目の前に誰かいるとき、少なくともその人のことを理解しようとするために、その人についてとらえようと努力する場合が、なくはないだろう。
目の前の誰かというのは、まず文字通り眼前の誰かということもあるだろうし、あるいはそこには居合わせていない誰かであったり、想像上のだれかであったりするかもしれない。
(誰かという「人」でなくても、「物」でもいいかもしれない。でも、とりあえず誰かで考えてみよう…)

そうした誰かはだいたい、概念や属性、特徴でくくられる。それはたとえば「やさしい」とか「早口だ」とか「男っぽい」とか「優秀だ」とか、あるいは「何処々々の人だ」とか、そういうくくりである。

こういうふうにして誰かをくくることに対して、自分自身はいくらか気を遣うことが少なくないと思う。それは誰かへの配慮であるというよりは(つまり、ポジティヴな意味というよりは)、どちらかというと教育によって付いた癖であり、自分自身の保護のためである。
正確に言えば、ある種の教育による(いくぶんか誤った)成果として、自分自身の癖ができているからであり、そして自分がそうされたら悲しいだろうということを思っていると提示するためである。

その結果どうなっているかというと、誰かについて話すとき、「何々という特徴があると言えるかもしれない状況が誰々にはある」という、非常にまわりくどい言い方をするようになっている。
そしてあとにはこう付け加えることもある。すなわち、「そうした状況は誰々に備わるものかもしれないし、他の誰かとの相互のかかわりによって生じているかもしれない」と。

こうした判断の留保(あるいは判断の一時性)について、良いとか悪いとか、僕自身はそうした部分をあまりうまく考えられていない(あるいは二者択一で考える必要もないのかもしれない)。

ではなぜこんなにもまわりくどい(ように見える)ことをしているのかといえば、僕がある一面を切り出した誰かというのは、また別様にも切り出されているだろうと推測するからである。

Aにとって、Bはsとうつる(という状況がある)かもしれないし、他方でCにとってBはtとうつる(という状況がある)かもしれない。
そうした一面的ではないBについて、自分の見方は部分的なものにすぎないと考えると、留保をしたくなる。
(便宜上AにとってもCにとっても「B」としたけれど、別に同一に「B」というわけでもないだろうし、「B」としての見方が可能になっているのも必然性はないのかもしれない)

 


そうこうした過程を経て、誰かについてどうにかして捉える。するとその捉えたイメージはそのものとしてある人々の範囲で流通し、そういう見方が一定の説得力というか常識らしさを帯びていく。
どうやらそういうものらしい、と。

そうした流通は、長かったり短かったり、狭かったり広かったりする。親しい人の間柄だけということもあるだろうし、あるいは街とか国とか、そういう「大きな」部分でのこともあるだろう。そうしてある範囲の人々のあいだで誰かについてのイメージが流通し、多かれ少なかれ人々の行為に影響を(おそらく)与える。

 


自分は、そのイメージの源泉から、誰かについて汲みきれているのだろうか。そして自分は誰かによって汲みつくされているのだろうか。「誤解」がどこかにあるのではないだろうか。

しかし、他方で、そんなにも十分に汲み取れることなどありえるのかという疑問はある。なにより、常にそういうことを考えているわけでもない。そんなことをしたところで疲れることもある。こういうこと考えることで何になるのかとも思ってしまう。

何をどうせずとも、汲み取り、汲み取られ、イメージは固まり、流通し、行為を呼び起こす。

 


ただいえるのは、もし勝手に決めつけられたら自分は悲しいだろうということだ。でも、それが決めつけであると異議申し立てをできるかどうかもわからない。何より、自分もまた決めつけているのだろうし。

 


今日は少しだけ暖かい日だった。