おお(き)すぎる感覚

日頃目にする多くの事柄は、いろいろな媒介を通じ自分の前に情報として提示されている。

テレビのチャンネル、ネット上のソーシャルメディア、誰かとの会話にあらわれる噂…。あるいは調べ物をしているときのある制度についての資料。

取り上げられ、出来事として人々によって消費されたり、その記憶に刻まれたりする事々。

そうした情報というか何か意味のありそうなものは、とても多いように感じて、すべてを知り尽くすことができないし、何をどうすれば知ったことになるのかというところがまずわからない。

数字、新聞、テレビのニュース…。見る者に対して何か「大きな」ものを想像させるような媒介。

 

さまざまなカテゴリに分類され、語られ、立場ごとの対立を時に呼ぶような出来事。それは主にどこかの誰かが行ったことである。

そうした人や行為を(時に説明するために)括るカテゴリは、時として大きすぎ、あるいは多すぎる。

どこどこの国では…、○○人は…、男は女は…、マスコミは…、○○党は…、何某社は…。他方で、人に焦点が当てられ細かく(見えるように)なることもある。誰々という人は何国出身、母語は何で性は何、経歴は何で所属組織が何、今回の行動については何…。

 

誰かが何かをしたとき(あるいは「した」とされたとき)、どこに焦点をあてれば「わかった」ことに、「説明した」ことになるのだろうか。所属している集団や組織やステータスはどのくらいその行動に関係があるのか?共有されているメンタリティみたいなものが「ある」と言えるのか。

それがわかったり説明されたりするときに、それが有効である「範囲」はあるのだろうか。あるとして、それをどう描くことができるのか…。

また、それをそうしたものとして理解しようとする行為それ自体はいったい何なのか。

 

 

 

等々、考えながら書いているうちによくわからなくなってしまった。しかし、単に勉強不足であるということと、いつも通り同じようなことばかりずっと考えているという感覚だけは、わかるような気がする。本を読んで考えてみよう。本を読んで考えることも考えてみよう…。

 

Can you see the moon? Can you see it seen ...
―――Gertrude Stein, A Circular Play

(THE ANTHROPOLOGICAL LENS Harsh Light, Soft Focus Second Edition, JAMES L. PEACOCK, 2001より孫引き)

 

近頃の雑記

5月7日

最近の進路についてのあれこれ。ぼんやりと考え事をする日々が続く。
いくつかの要素やカテゴリに分けて、それらを繋いでは離し、組みあがるものを眺めている。いびつな形が多いが、きれいに組みあがったとしても、どこか不安な構造であることが多い。

 

どういったものがあげられるだろうか―――学問、年齢、就職、性別、国、社会、将来、自分、ライフイベント…。


人文系の大学院に通っていて、考えることは少なくない。それは直接的には専攻する学問には関係のないことだ。そうしたことを考える時間があるという程度には、学問に対して情熱を注げているわけではない。

 

自分は現役生ではないせいか、年齢について考えることが特に多い。同い年ではあるが学年的には先輩である人は「君は年齢を気にしすぎだ」というコメントを残している。
たしかに学問を営む上では年齢は関係ないだろう。重要なのは主張やそれを支える根拠および論の展開であって年齢ではない。年齢によって立派なことが言えたり言えなかったりするわけではない。また、経験の差がどうこうというわけでもない。
このとき自分にとって意味を持つのは「学問の場において」という但し書きである。

 

進路や将来のことを考える時、年齢が関係ないとは言えない。
専攻する学問的な主張に準じて、いくら年齢という概念を相対化しようとも、私は年齢を生きているのである。おかしな書き方であるが、年齢を生きないわけにはいかない。
それは、病名がいかに変わろうとも(あるいはそうした状態に病名が付こうが付くまいが)、その苦しみは相変わらずリアルなままであるのと似ている。

 

自身の専攻する学問の特性上、何らかの概念を自明視せず相対化することで、別様の現実を想像するという操作は少なくない。
しかしだからと言って、現実を生きなくていいことにはならない。
それならばそうした「別様の現実」を生きるために、それが可能となる場に身を置いたり、場を創出したりすればよいのではないかという考えもある。
確かにそうだが、そうした生き方が自分にとって幸せなのかどうかは、少なくともすぐにはわからない。

それに、あてつけがましいようだが(というか単なるあてつけだが)、そうした学問に従事するからと言って、その人々が必ずしもそうした学問で要請される考え方を実生活でおこなっているわけではない(ように見える)ことがある。
話題にしているのは倫理的な態度のことであるが、学問的な要請と実生活とは、無関係とまではいわないまでも、不可分であるというわけではない(ように見える)。
いうまでもなく、自分にもあてはまることである。

 

そもそも自分はどうして、そうした期待を学問とそれに携わる人に抱いていたのか。そこが問題の発端であり、あてつけられた方はいい迷惑である。
要するに、自分は学問に期待しすぎていたのかもしれない。
しかし、いったい何を期待していたのだろうか。期待という態度は他力本願であって、(おそらく)学問を取り組む上で誤った態度なのかもしれない。

 

学問の意義も、うまく説明できない。「社会」に向けた意義は、そもそも「社会」に「出たことがない」のでわかるはずもない。かといって、これを明らかにしなければ死ぬことができないという切実な問いがあるわけでもない。
もちろん日常的に感じる疑問や、知的な好奇心もある。だが、そうした日常における疑問が、大学院生という身分(や社会的位置づけ)に由来するものだとしたらどうだろうか。

 

 

 

学問をすること、日々の生活を営むこと、学問で職を得ること、学問を「役立て」ること…等々の関係について、もう少し整理したいなあ。