深夜・版画・自己肯定

今日も夜が更けた。部屋を出て街へ行けば、信号と街灯が夜道を照らし、ひっそりとした空間が広がっているはずだ。

 

夜が更けたのは版画を彫っていたからだ。版画を彫っていたのは本を読む作業に集中できなかったからだ。本を読む作業に集中できなかったのはスピッツを聴いていたからだ。スピッツを聴いていたのはご飯を食べてぼんやりしていたからだ。ご飯を食べたのはどうしても勉強がはかどらず部屋に戻ってきたからだ。今日も何も進まない。

 

周りと比べてみる。僕自身はどうだろうか、と。周囲の人は、何らかの目標に向かっている。前進し、近づき、反省し、程度の差こそあれいくぶんかの充実さをその手に握りしめているように見える。

 

 

時間を彫れば、決して細かくはない線ができる。彫刻刀の切れ味は、よくない。
更けた夜をインクにして僕自身に擦れば、なにやら浮かび上がるものがある。

 

それは何だろう。僕の顔? 顔だけではないはずだ。

言葉は紡げず、イメージは浮かばず、部屋から出ることもなく、ただ過ぎていく時間。
ただ過ぎていくだけならば、時間が意味を成すわけではない。それが何かしらの立体感をもって肉迫してくるのは、それは僕が日常に切れ目を入れる必要があるときだ。
誰かに会う、面接をする、買い物をする、労働する…、多くの場面で僕は僕自身として一貫性のある人なのだ。そのとき、時間が過ぎ去ったものとして妙なかたまりとなって、一挙に僕へ降りかかる。

 

時間が過ぎたという事実が蓄積してできたよくわからない細胞膜の様な薄い区切りのなかで、窒息しそうになる。することはできないけれども。

 

 

話を戻せば、周りは進んでいるのだ。進むって何だろう、周囲との比較って何だろうと問うことはしない。単純に素朴に、それだけだ。だから明日は、何しよう。