ASIAN KUNG-FU GENERATIONの音楽を聴く

今回は本とはあまり関係がない。

 

昔から、ロックバンドであるアジカンことASIAN KUNG-FU GENERATIONが好きで、かれこれ12〜3年くらい聴いている。

何が好きかといえば、歌詞だったり、メロディだったり、ボーカルの後藤正文のギターだったり、伊地知潔のドラムパターン、喜多建介のコーラスや山田貴洋のベースラインだったり、とりあえず好きなんだろうなと思う。MVの微妙なふざけ具合とか。

(ただ、ソロのGotchはあまり聴かない。)

 

好きなんですと言ってみたが、あの曲のこのコード進行が好きとか、その曲がどのバンドにインスピレーションを受けているから渋いとか、

何というか良い意味で「マニアックな」聴き方をしたことはなく、「表面的な(?)」所に終始していると思う。

もちろん、バンドや曲、メンバーの音楽の嗜好や背景を知れば、さらに楽しめるに違いない。

 でも、今までしなかったので今後もしないのではないかと感じている。

 

さて、どうしてこのバンドについて書こうと思ったかと言えば、好きだからなのだが、今回の理由は2つある。

1つは、自分が深く影響を受けただろうから。ほとんどこのバンドの音楽しか聴いてこなかったので、なんというか自分の考え方が良くも悪くも歌詞などに影響されてロマンチックになりがちである。例えば夜、散歩をしていると急に憂鬱な気分になって「夜風に吹かれて溶けてしまいたい」と思ったり、海岸通りを聞いて海へ出かけたくなったりすることがよくある。ただし、アジカンの歌詞がロマンチックなのかと言われれば、議論の余地はあるのだろうが、とりあえず自分の性格の形成の片翼を担ったと一方的に決めつけることで、責任転嫁をしたい。

もう1つは、曲の題名や歌詞のキーワードに着目してみたいから。おそらく130曲くらいはありそうなアジカンの楽曲には(アジカンに限らないかもしれないが)、よく出てくる言葉やフレーズがあるように思える。加えて、アジカンの変遷を追えば、歌詞の中で描写されるものや、人称代名詞の変化を感じることができるのではないかなと思っている。たまに浮かんだアイデアがあっても特に実行しなかったので、今回は何かしらをしたい。

 

なので、これから後者をメインにして書いていこう。どんな風にしていくかも含めて書きながら考えられればなと思っている。

 

とりあえず、例として浮かぶのは、

まず曲名やキーワードを追っていくタイプ。

新世紀のラブソングが思い浮かんだので、これから始める。抜き出す歌詞は恣意的に。(「曲名」“歌詞”)

「新世紀のラブソング」“息を吸って命を食べて排泄するだけの猿”→“猿の欲望と海綿体”「planet of the apes」→惑星“空に一瞬の夕闇”→「アフターダーク」“夜風が運ぶ淡い希望”→「夜の向こう」“頬を撫でる弱い風”→…

という感じ。今の例は、年代を全く無視したものだが…。何かしらのつながりを勝手に見出して、つなげていくというやり方。前後の曲でそのイメージを比較したら面白いかも。

 

次の例としては、アルバムごとに、人称代名詞(の数)を追っていくこと。

アジカンの曲には、従来「僕」や「君」が目立ってきたが、最近は「彼」「少女」「老婆」「少年」なんかも登場して、一人称、二人称から、三人称も現れるようになってきた気がする。

ソルファ→僕…○回、君…△回、彼…□回

ランドマーク→…

など。

 

これに、描写される景色や情景を加えてみても面白いかもしれない。

というのも、「昔のアジカンは情景描写が多かったけど最近は政治っぽさがあって…」というようなレビューをAmazonで見かけたりする。5メートルの現実感をなくしてしまったというわけだ。

 

こんな風にして、自身も楽しみながら書ければなあという感じ。

 

 

「民族誌を再演する――ターナーとパフォーマンス」(メイキング文化人類学を読む①第8章)

1.民族誌を読むことの意味

2.民族誌を演じる

3.ザンビアのとある儀礼

4.「演じること」と「本物」のゆくえ 

5.おわりに

 

今回は、『メイキング文化人類学』の第8章、「民族誌を再演する――ターナーとパフォーマンス」を紹介する。

 

1.民族誌を読むことの意味

 

民族誌をはじめとした人類学の本を読むことの醍醐味の一つに、自分のいまだに知らない世界へと足を踏み入れることで、ワクワクすると同時に再帰的に物事を考えるヒントになるということがあげられるだろう。それは、日々の生活についてだったり、社会のありかたについてだったり…いろいろなことを考え直すきっかけをくれるものである。

 

その際に、何を手段にして私たちは物事を考えるのだろうか。考える手段の一つに書かれたものとしての知識が挙げられると思う。民族誌の記述を読む中で、読者が何かを「発見」したとしたら、それは当人にとって新しい知識ともいえるだろう。たとえば、「メラネシアの人々の人格について、一人の人として固定した個人(individual)というよりは、むしろ分割できるような「分人(dividual)」という方が、より適切である。」という記述があったとき、いくらかの読者は「そんなあり方もあるのか」とはっとさせられるのではないだろうか。

 

しかし、このような記述を読むことで―つまり読書を通じて―得られる知識(の質)と、実際にこのように記述を書くようになった(分人というありかたが書くに値するものなのだと判断させるような経験をした)フィールドワーカーの身体的な経験という意味での知識(の質)とでは、同じ主題について扱っているとはいえ、異なっていると言いたくなるのではないだろうか。

人類学は基本的には「異文化」を研究対象にするのであるから、「私たち」と「彼ら」との差異(インパクト)の大きさが、何よりも民族誌的知識としての基準になりうるだろう。ただ、その差異の大きさは、必ずしも文章だけで伝えられるものではないと思う。

 

多くの場合で身体的な経験をともなった、うまく言葉にできないようなインパクトを、フィールドワーカーは感じているはずである。その経験をいかにして伝えることができるのか。また、その経験を伝えるという行為は何を意味しているのか。多くは民族誌として書かれたものになっていくその経験(知識)について、ターナーを手がかりに考えることができるかもしれない。

 

2.民族誌を演じる

 

ヴィクター・ターナー(1920~1983)と言えば、『儀礼の過程』の著者として有名だろう。「コミュニタス」や「リミナリティ」という概念を聞いたことがあるかもしれない。

民族誌を書くことにとどまらず、ターナーは学生とともに、「単に民族誌を読んだりそれにコメントするだけではなく、民族誌を実際に演じてみる」という試みを実践していた(190ページ)。「民族誌を演じる」とは、どういうことだろう。

民族誌についての議論は数え切れないほどあり、定義はとても難しいが、ひとまず人類学者のフィールドワークの結果をまとめたものであると言えるだろう(cf. 『文化人類学キーワード』「民族誌」)。つまり、いろいろな社会や文化の人々が語られるのが、人類学という現場であり、それは民族誌という媒体を通じてなされている。そしてその多くは紙の上の文字によって表現されている。しかし、ターナーはこれでは不十分だと考えていた。

 

「人類学は本来、自分たちとは縁遠い人びとの生き方について考えながら同時に自らの生き方を再帰的にとらえていく学問であったはずなのに、人類学が要請する知識とその方法はその面白さの核心を撃ち損なっていると考えていた。…彼がパフォーマンスと呼ぶのは、人類学的とされてきた客観的な民族誌的知識やフィールドワークの方法を身につけること以上に、自分とは無関係に思える人びと、縁遠いと思える人びとを個々人の主観的な問題系へとどのようにして媒介していくのかという点に関する模索であった。」(191ページ)

 

民族誌を読む人の中には、そこに描かれている人々と会うことがほとんどないままに一生を終えることもあるだろう。日本の読者がモロッコニューギニアに住む人々の生活について知ったとしても、描かれた「彼ら」に会えるかどうかは未知である。

対照的に、フィールドワークをおこなう人類学者は、まぎれもなく彼らと生活をしてきた。そしてある意味で民族誌的知識は「身体化」しているといえよう。

人類学者に限らずいろいろな人が、知的好奇心を満たそうとしたり、日々の疑問を解決したいと思ったりするだろう。そのような問題意識を前にして、書かれていない民族誌的知識もまた共有できたらいいのではないか。

その意味で、民族誌の再演は、演じる側に対しても、見る側に対しても、読書という行為を通じて得る知識とはまた異なった類の「知識」をもたらすのではないだろうか。

 

3.ザンビアのとある儀礼

 

本書(『メイキング文化人類学』)ではいくつかの民族誌的記述の紹介がなされているが、ここではザンビアのンデンブ社会における「イソマ儀礼」を紹介しよう。

イソマ儀礼は、『儀礼の過程』に描かれているものである。これは、女性の不妊(厳密には早産や流産、死産を繰り返す出産しない女性)と双子の出産という女性の生殖力に関する事例である。

 

「このような女性はイソマに捕らえられたといわれる。イソマというのは出産することが期待されているのに出産することができない、あるいはあらかじめその能力が阻害されている女性を対象に行われる儀礼の名称でもあるが、女性に死産させたり、幼児たちに連続死をもたらす死霊の現れでもある。この死霊は出産しない女性の母系親族の女性たちの死霊であるといわれ、面白いことに多くの場合女性と夫が同居しているときにやってきては女性の出産を妨げるというのである。なぜ死霊が出産の邪魔をするのかといえば、女性が夫側に近づきすぎて母系親族の先祖の霊を忘れたからであるという。出産の妨害によって女性が本来どの親族集団に属するのかを思い出させるのである。イソマ儀礼がそれを可能にし、女性に生殖の力を甦らせるのである。」(204ページ)

 

そして、注目すべきはこの儀礼の定まったやり方である。

 

「この儀礼は占い師によって大ネズミか大アリクイの巣穴で行われるべきであると指示されもする。また、この穴は小川の水源近くのものでなければならない。この他、儀礼に参加すべき人物、使用する薬草や鶏の種類、唱えられるべき言葉、用意された薬液を身体にかける回数、熱い穴と冷たい穴と呼ばれる穴を往復する回数など細部にわたって決められ、あらかじめ形式化されている手続きに従う必要がある。」(204ページ)

 

このような記述だけでは、「彼らの」社会を単に「説明」するものになってしまう。たしかに、民族誌はある社会のことを「説明」し、読者に伝えるのが役割の一つであるだろう。しかし、ターナーはこれを実際に演じてみようとし、そこに創造性を見出したわけである。

 

ターナーはンデンブをそっくり同じに「模倣(ミメーシス)」するのではなく、ンデンブの生活を喚起するような「模倣」をポイエーシスと呼び、そこに創造性をもたせようとする。オリジナルとはまったく異なるものへと変容していく「模倣」の連鎖、それがターナーのいうパフォーマンスである。」(208ページ)

 

ターナーは、民族誌をパフォーマンスの中に位置づけることで、人類学を新たな創造的模倣の連鎖へと開放しようとしたのである。

 

4.「演じること」と「本物」のゆくえ 

 

ところで、何かを演じるということは、演じられるべき「対象」がいるということである。これともすれば、演じられたものは、本物を写し取った偽物にすぎないということになってしまわないだろうか。これは、真正性という問題へと演じることを導く。

 

「たとえば、民族誌的事実のレベルではイソマ儀礼にはやはり大アリクイの巣が必要だろう。だが、パフォーマンスでは木箱や紙の道具が使われるかもしれないし、演出家は異なる動物の巣でもいいというかもしれない。このとき、民族誌的事実の真正性は失われてしまったのだろうか。儀礼の要素はどこまで民族誌的事実と同一であればンデンブでありうるのだろうか。イソマ儀礼の要素がすっかり他のものに代替されてしまったとき、それはもうンデンブの儀礼とはまったく異なるものになるのか、それともンデンブと呼びうるものが残るのだろうか。逆にイソマ儀礼それ自体が再演された民族誌パフォーマンスによって内的変化を遂げることもありうるのかもしれない。そのとき、どちらがより真正なのだろうか。模倣は本来関係のないところに強引に関係を生成させていくのだが、そのプロセスでオリジナルの=起源の真正性は、何か似ても似つかぬものの模倣かもしれないという可能性によって非真正なものになるのである。」(210ページ)

 

ドゥルーズガタリは『アンチ・オイディプス』でターナー儀礼分析を引用した後で、このように言ったという。

「一切のものが父の名や母方の祖父の名の上に折り重ねられてしまうのではなくて、むしろ父の名や母方の祖父の名は広く歴史上の人物のすべての名前に開かれていたのである。一切のものが去勢というグロテスクな切断に投射されてしまうのではなくて、一切のものは数千の<流れ―切断>のなかに分散していたのである。」(210ページ)

 

5.おわりに

 

人類学では、表象の暴力とか、書くことの政治性などというように、対象の人々を「他者」や「彼ら」として描くことへの問題が指摘されてきた。それに対する明確な答えは、あるのかもしれないが、(勉強不足のゆえに)あまり見たことがない。『文化を書く』にしても、『部分的つながり』にしても、きちっと消化しないといけないのかなと感じることがある。

 

ただ、これらはどちらかといえば書き手の問題(人類学者の問題)なのかもしれず、受け手もまた様々であって、議論されてもいいだろう。

そういう意味でターナーのパフォーマンスは、受け手も巻き込んでいき、人々にさまざま効果を与えていくという点で、あらたな可能性があるのではないだろうか。

また、身体的な知識として民族誌を経験することは、それを読む上においても、重要な基盤として作用するように思う。

自身のテーマである介護やケアについても、演じるということが何かの可能性をもっているかもしれない。

 

出典:『メイキング文化人類学』

第8章 慶田勝彦「民族誌を再演する――ターナーとパフォーマンス」

 

ドゥルーズガタリ

『アンチ・オイディプス』

 

ヴィクター・ターナー

『儀礼の過程』