「具体的に」生きる/坂口恭平『TOKYO 0円ハウス 0円生活』

 この本は、“路上生活”をいとなんでいる「鈴木さん」とその相方である「みっちゃん」の二人が、“0円ハウス”に住みながら過ごす日常を巧みに描写したものである。

 坂口恭平は建築家/作家であるのだが、鈴木さんの“0円ハウス生活”について建築やものづくりの観点から意見を加えている。鈴木さんの何気ない言葉を見逃さずに掬い上げて、自身の文脈とつなげていくさまがとてもうまく、読んでいて非常におもしろい。

インタビューと“フィールドワーク”のなかで徐々に明らかになっていくのだが、題名のとおり鈴木さんの生活は本当に“0円”なのだから驚きだ。

 

 

1.鈴木さんについて

 

 鈴木さんについて簡単に紹介しよう。

鈴木さんは福島で土木作業員をしていたが、ある日その会社自体がつぶれてしまった。

職を求めて、鈴木さんは上京することにした。手元には40万円ほどの資金があり、旅館に泊まりながら仕事を探す日々が続く。

1週間ほど経過したある日、鈴木さんは居酒屋で酔っぱらってしまい、そのまま夜の公園で寝てしまう。公園にある「揺りかごみたいなブランコ」に誘われてのことだった。

だが、気づいた時には時すでに遅く、起きてみると案の定事態は深刻。鈴木さんの荷物、財布はどちらも盗まれてしまっていたのだ。

ここから、突然路上での生活を余儀なくされることになる。しかし、鈴木さんは「まぁ、それはそれでどうにかなるさ」とあまり動揺しなかった。

 

夏も終わりかけの9月頃、言問橋の下で寝る生活が始まった。

 

 

2.試行錯誤という生活

 

 

鈴木さんの生活は試行錯誤の連続だった。「だった」というより、試行錯誤そのものが生活である。

鈴木さんは生活するために街を歩き道具を入手し、物を手に入れ使い方をマスターしていく。

 

たとえば鈴木さんは、ガソリンスタンドで自動車用のバッテリーが無料でもらえることを知る(急いで付け加えておくが、鈴木さんはガソリンスタンドから勝手にもらっているわけではなく、きちんと挨拶をしたうえでバッテリーを譲り受けている。この点は鈴木さんの生活全般におよぶ)。

 

鈴木「ある日、ガソリンスタンドから自動車用の12ボルトのバッテリーを拾ってきた」

坂口「すぐに使えたんですか」

鈴木「バカな。バッテリーをどうやって使うかすら知らなかった。100ボルトと12ボルトの違いも知らないんだよ」

 

 

だが、鈴木さんはバッテリーの使い方を知らない。

しかも、自動車用のバッテリーといっても「使い物にならなくなった」からこそ無料でもらえるのである。私たちはこういうバッテリーを見て、「粗大ごみ」以外に捉えることができるだろうか。

しかし、鈴木さんはあきらめない。「使い物にならなくなった」のは、「自動車にとって」であり、じつは日常生活に十分な量の電気がまだ残っているのである。

鈴木さんはとにかくいくつものバッテリーを壊しながらも試行錯誤を重ねていく。

 

鈴木「すると、だんだんと分かってきた。12ボルトのバッテリーで使うことができる電化製品はけっこう多いってこと。どうやって接続すれば危険じゃないかってことなどをね。そして、当時たくさん捨てられていた原付バイクのライトをバッテリーに接続してみた」

 

するとどうだろう。

 

坂口「ついちゃうんですか」

鈴木「ついちゃうのよ。大成功」

そしてまた一つ文明が生まれた

 

 

 

このように鈴木さんは、どんなものに対しても「まだ使える」という姿勢を崩さない。鈴木さんの“技術”はまるでレヴィ=ストロースの言うブリコラージュのようでもある。

たとえば鈴木さんの“家”には段ボールや新聞紙が多くもちいられている。なぜだろうか。

 

鈴木さんの手作りの“家”は、数本の柱やベニヤ板などを組み合わせた非常に簡易的なつくりになっている。

いろいろな部品が密着しているわけではなく、隙間が空いている。しかし、これには理由がある。それは隙間が空いていることで、夏は風通りがよく涼しいからだ。

では冬は隙間風が寒いのかと言えば、そんなことはない。ここで段ボールと新聞紙が効力を発揮する。

天井に置いた段ボールは部屋から熱を逃さず、隙間を埋めるように強いた新聞紙のおかげで風が入らず温かい。

つまり鈴木さんは「段ボールは断熱に優れ、新聞紙は隙間風を防ぐ」という側面を発見し、それを自身の建材として利用しているのだ。

 

段ボールや新聞紙。僕たちが普段使い捨てのものとして利用しているものが、鈴木さんの家では重要な住宅の建材になっている。

 

鈴木さんの生活において、モノはその想定された用途を超え新たな側面を見出されているのである。

 

鈴木「工夫するのが好きなのよ。そしてこの生活は工夫すればするほど面白くなっていくわけよ」

 

この意味で、鈴木さんの生活はそれ自体が「生き物」のようでもある。いつでも未完成なまま、その可能性が閉じることなく広がっていくからである。

鈴木さんのそばにあるモノは、今とは異なる用途・形態に転じていくことで常に新たな可能性を喚起していくのである。

 

 

3.「血の通った」生活

 

 

鈴木さんは自身の技術を他人に分け与えることを惜しまない。

家を建てたい人がいれば協力し、電気の扱い方は皆で共有する。誰がか鈴木さんのもとを訪ねれば食と酒で歓待し、道端で水たまりに転ぶ人がいれば手を差し伸べる。

 

鈴木「ここではなんでもお互い様。何かをあげると、何か持ってやってくるからね。うまくできてるんですよ」

 

つまり、

 

ギブ&テイクではなくて、ギブ&ギブ&ギブ。与え続けること。

 

 

これが重要なのだという。しかも、鈴木さんの動機は損得勘定から生じるものではない。

その方がうまくいくのだということを、鈴木さん自身が理解しているのである。

 

 

このように、とにかく鈴木さんの生活はあらゆる局面に鈴木さんの「血が通っている」とでもいえるだろう。人間関係しかり、モノへの態度しかり。

このような生き方は、常に具体的な事柄から出発すると言う点で、地に足がついている。

 

たとえば鈴木さんの主な仕事の一つにアルミ缶拾いがある。もちろんアルミ缶拾いをおこなうのにも理にかなった訳があるのだが、ここでは割愛する。

鈴木さんの仕事は「アルミ缶」を集めることであり、同じ缶でも「スチール缶」ではない。

ある日、坂口が鈴木さんと同行しているときに、コーヒーの缶が入った袋を鈴木さんのもとへもっていく。

しかし、鈴木さんは受け取らない。それはスチール缶だったからだ。スチール缶は「割が合わない」ために業者が回収していないのだ。

そこで、坂口は次のような疑問を発する。

 

坂口「そもそも、なんでコーヒーは鉄の缶なんですか。面倒くさいから統一すればいいのにと思うけど」

 

鈴木さんはすかさず次のように返した。

 

鈴木「缶コーヒーにはたくさんの糖分が入っているため、アルミニウムだと金属が溶けてしまうらしいんだよ」

 

鈴木さんはとにかくものをよく知っている。

 

鈴木「だって、これが自分の仕事ですよ。知らないとまずいだろ」

「だから、最近出ているブラックコーヒーはアルミの缶だよ。今度チェックしてごらん」

 

 

鈴木さんの知識は常に自身の生活と不可分であり「企業の様々な動きとも皮膚感覚で付き合っている」のである。

アルミ缶の買い取り価格は日々変動しており、その背景には資源に関する情勢があるのだが、鈴木さんはこのあたりにも非常にあかるい。

 

 

 

4.インタビュアーとして

 

 

最後に、この本の著者である坂口恭平さんの本の書き方のようなものについて言及したい。

 

なんというか、本書を読んでいて文の運びがとても上手だなと思った。鈴木さんとの会話をテンポよく繰り広げつつ、所々に著者の感じ方が挿入されていて、そのバランスが心地よい。

たとえば著者は鈴木さんの炊飯の仕方に言及しつつ、次のような文章を書く。

 

やっぱり直火で炊いたご飯のほうがおいしいんだよと鈴木さんは言う。こういう時にボソッと出てくる鈴木さんの一言は重い。僕はそれ以来、炊飯器をやめて土鍋でご飯を炊くようになった。鈴木さんの言葉通り、うまい。

 

著者は鈴木さんの一言ひとことを掬い上げるのがうまいなと感じた。きっと鈴木さんの何気ない一言の中には、幾重にも広がる深みのようなものがあるのだろう。

それはきっと鈴木さんの生き方と密接に関係しているからだと感じる。

鈴木さんにとって、住むこと、モノを使うこと、仕事をすること、自転車に乗ること、買い物に行くこと、話すこと、人と会うことなどは、それぞれが独立しているのではなくて互いにつながっているのだと思う(しかも鈴木さんの生活は常に新しい何かへと変わっていく潜在性を持っていると言う意味で、いつも「未完成」なのだ)。

 

だから、発言の一つひとつにさらなる展開が含まれている。それをうまく汲み取って、自身の文脈と関連づけつつも、鈴木さんの生き方へかえしてゆく著者の話の聞き方もきっとうまいんだろうなと感じた。

 

いや、もしかしたら鈴木さんはなんだか「すごい」雰囲気に見えるのは、著者の書き方なのかもしれない。いずれにしても、リズミカルで読んでいて楽しい文章だった。

 

生活のあり方について考えさせられる一冊だった。